「高倉はサインを入れた婚姻届を、「何かあったらこれを出しなさい」と、毎回、置いていきました」(小田さん)

 

高倉健の遺志を守るため“聖域”を処分することに

長いロケに出る時、高倉は自分のサインを入れた婚姻届を、「何かあったらこれを出しなさい」と、毎回、置いていきました。何かあって亡くなったら、婚姻届は無効で出せませんけど(笑)、それが何枚も溜まった。書類や籍にはこだわらない人でしたが、「これが僕の気持ち……」。それで充分でした。

そんな高倉と養子縁組をしたのは、12年に私の母が倒れたことがきっかけです。患者本人の親族でない者は医師の説明を聞くこともできないと知った高倉は、母より年上だったこともあり、自分の今後を意識するようになったのでしょう。

「養女」としたのは、婚姻届を出し「高倉健が結婚」となると、大騒ぎになってしまう、それを恐れてのことでした。私自身は、「ああ、責任重大」と身が震えました。

──高倉健さんが亡くなり、すでに密葬も済んだと事務所が公表したのは、2014年11月18日のこと。その年末、小田さんの存在が世間に明らかになる。その後、親族も知らないうちに散骨や、邸宅を解体しての建て替え、高倉さんの車やクルーザーの処分をしたことなど、小田さんの行動が一部週刊誌でセンセーショナルに報じられた。

入退院を繰り返すなか、「弱った姿を見られたくない」「触れられたくない」という高倉でしたので、24時間態勢で看病し、医療行為以外のほとんどのお世話を私がしました。「どなたかお会いしたいですか?」と尋ねても、「貴がいればいいから」と……。高倉が息を引き取った時は、私も死んだような状態になりました。

けれど現実は待ったなし。やらなければいけないことが押し寄せてきます。高倉が生前最も嫌っていたのが、仕事に支障をきたすこと。ですから私は翌日から仕事関係の対応に追われ、さらに法的な手続きも山積。

でも私は高倉が闘病中の10ヵ月間、寝る時間も削ってずっとそばについていたので、体力が残っていません。体調を崩して入院し、病院から弁護士事務所に通いましたが、真っすぐに歩けない、手が震えて文字が書けない。情けないことに、栄養失調でした。

親族の方々への知らせが遅れたのには事情があります。亡くなった後、私の存在を知る数少ない人物である事務所の方が病室にいらして、「僕から伝えます」と。高倉は親族にも私のことを知らせていませんでした。その私から連絡を受けても戸惑われるでしょう。それでお任せしたのですが、正確ではない内容が伝えられたようです。他人任せにした私の未熟さでもありますが、時間は取り戻せません。