生前高倉は、プライベートを明かすことを良しとしませんでした。中でも家は”聖域“です。死後もそんな高倉の思いを貫きました。

高倉は愛車を何台も持っていました。ただ、乗る人のいなくなった車をいつまでも維持するわけにはいきません。クルーザーも然り。車も船も扱いを間違えれば、人をケガさせる凶器ともなる。それを常に意識していなければいけないと高倉は言っていました。

高倉の履歴のあるものが事故を起こしたとなれば、高倉が悲しむのは必至。処分は、そういう思いを託されてのこと。高倉の親族とはお互いの弁護士を通じて、話がついておりますので、これ以上私からお話しすることはありません。

高倉の遺志を遂げるために、私が残されたようなものです。一つひとつ丁寧に進めております。

──散骨は、小田さんがひとりで行ったのだろうか。

はい。ひとりで行いました。高倉にとって死はタブーではありませんでした。生前から「任せたよ」と何度も言われていたのです。やるべきことは高倉の遺志を引き継ぎ、名誉を守り続けるために粛々と事を進めること。葬儀や散骨も、その遺志を尊重してのこと。個人的でデリケートであるべき話が、曲解されていることが残念です。

 

大きな課題を終えても名誉を守る使命は続く

亡くなる2年くらい前のこと。高倉が「自分のほうが早く亡くなるだろう。そうしたら、僕のこと書き残してね」と言うのです。「僕のこと、いちばん知っているのは貴だから」と。ああ、これは私への宿題なのだと思いました。

高倉が逝ったあと、法的手続きに追われ、58年間の俳優人生で残した倉庫いっぱいの資料の整理にも、膨大な時間がかかりました。

それをこなしながら、高倉が言い残した宿題にも全力で取り組む。書くのは夜。空気が澄んで落ち着いてくると、高倉の声を拾いやすくなるのです。いつも会話をしているようで、寂しさは和らぎました。そうして『高倉健、その愛。』を書き上げたのです。

ひとつ、大きな課題を終えました。時代の風雪に耐え、“高倉健”を貫いた美しい姿、その名誉を守り続けるという使命は一生続きます。今後、私の人生がどうなるのか、自分でもわかりません。けれど、高倉が17年間、チャレンジ精神を鍛えてくれたので、いただいたご縁を紡ぎながら、自分が最良と思った行動に、最善を尽くします。

「負けるなよ」という高倉の声とともに、その光が灯された道を歩んでいきます。