養女の小田貴月さんだけが知る、高倉さんの遺志とは―(撮影:本社写真部)
高倉健さんの養女・小田貴月(たか)さんは、17年もの間、自分の存在を世間に知られぬよう暮らしてきました。孤高の俳優をひたすら支える日々は、いったいどのようなものだったのでしょうか。そして、小田さんだけが知る高倉さんの遺志とは――(構成=福永妙子 撮影=本社写真部)

香港での偶然の出会いから手紙のやりとりが始まって

2014年11月10日の夜明け前に高倉は旅立ちました。今も寂しさに襲われることはしばしばですが、庭の樹々の葉の動き、部屋の空気の揺らぎに、高倉の気配を感じ、「ずっと一緒にいる」「見守ってくれている」とも感じています。

高倉が“戦い(仕事)から戻って、自分を解放できる場所”と言っていた家で、私は17年間、その穏やかな時間に寄り添って生きました。

一緒に旅行をしたことも、外で食事をしたことも、一度もありません。高倉は共演者の女性と食事に行っただけでも、「あっ、ひとりじゃない」と騒がれる。誤解を受け、記事に書かれてしまう。そういう窮屈さや不自由さをいろいろと聞かされていました。決して居心地の良いものではなかったはずです。高倉が「不愉快だ」ということをしたくない……そう思えた結果なんです。

──2人の出会いは1996年3月。当時、フリーライターとして活動していた小田さんは、女性誌の取材で香港のホテルを訪れた際、高倉健さんと遭遇する。

仕事の後、カメラマンやホテルの担当者と共に昼食をとるためレストランに行くと、テーブルで談笑する高倉を見かけました。“俳優・高倉健”については、映画『八甲田山』や『南極物語』に主演した俳優さんという範囲の認識でした。

とはいえ著名な方です。カメラ機材を抱えた私たちが入ることは憚られたので、いったん外へ出ました。その後、担当者のご配慮で、私たちは隅の目立たない場所に席を得て食事をしていました。

そこに高倉が現れ、「お気遣いいただき、ありがとうございました」と会釈していったのです。