2人の女性が持ち合わせていたもの
多治比という姓は、刀伊と戦った人の中に「怡土郡の住人多治久明」が見られるように、北九州から対馬あたりに広がっていた氏族と見られる。
もとは6世紀の宣化天皇に始まる天皇からの分かれで、7世紀末期の左大臣多治比真人嶋のときに皇族から離れ、中央政界では9世紀にはほぼ姿を消していた氏族である。
また内蔵氏はもともと天皇の財産を入れる蔵を管理する渡来系氏族だったが、やはり9世紀には衰退してしまっている。
彼女らはそうした一族の後裔で、地方に土着した者の一族であり、それなりに有力な家の女性ではないかと思われる。
そして彼女らは、海に投げ込まれても浮いていて高麗船に救出されたというのだから、海近くに生きる女性たちの強さも持ち合わせていたようだ。
もしかしたら彼女らは海女を生業にしていたのかもしれない。私はこの話を読むたびに、志摩半島に生きる、陽気で生命力にあふれた海女さんたちを思い浮かべるのである。