忘れてはならない女性

さて、この事件でもう一人忘れてはならない女性がいる。皇太后彰子である。

このときの天皇は彰子の長男、後一条天皇で時に12歳、まだ政治ができる年ではなく、摂政藤原頼通が実権を握っていた。

『小右記』の同年4月26日条には、摂政頼通が大宰府からの報告書を上奏しようとしたということが記されている。

物忌やら何やらで結局うやむやになったようだが、頼通が事件の最終報告をしようとしたのは誰かということを考えてみれば、それは後一条ではなく母后の彰子だと考えられる。

そう、この事件に関わった「王権」の中心には、皇太后彰子がいたのである。

※本稿は、『女たちの平安後期―紫式部から源平までの200年』(中公新書)の一部を再編集したものです。


女たちの平安後期―紫式部から源平までの200年』(著:榎村寛之/中公新書)

平安後期、天皇を超える絶対権力者として上皇が院制をしいた。また、院を支える中級貴族、源氏や平家などの軍事貴族、乳母たちも権力を持ちはじめ、権力の乱立が起こった。そして、院に権力を分けられた巨大な存在の女院が誕生する。彼女たちの莫大な財産は源平合戦の混乱のきっかけを作り、ついに武士の世へと時代が移って行く。紫式部が『源氏物語』の中で予言し、中宮彰子が行き着いた女院権力とは? 「女人入眼の日本国(政治の決定権は女にある)」とまで言わしめた、優雅でたくましい女性たちの謎が、いま明かされる。