不審な点
藤原道長の前半生の大事件として、源倫子との結婚が書かれています。
それによると、倫子の父の源雅信は、倫子を后がね(お妃候補)として育てていたので、摂政兼家の子でも三男(全体としては五男)の道長との結婚には反対していました。しかし妻の藤原穆子が道長の性格を見込んで夫を説得し、ついに婿に取ったというのです。
この話にはいくつか不審な点があります。
まず、『栄花物語』はこの時の道長が「三位中将殿」で、雅信はその地位をまだまだ低いと思っており、左京大夫(首都の行政長官、いわば都知事)に昇進してようやく納得した…としています。
しかし実際には、この年、永延元年(987)には22歳で従四位下から非参議の従三位、つまり国政会議には参加できないが上級貴族身分に昇進しており、左京大夫になったのはその前のこと。同じ年には、異母兄の道綱が同じく非参議の従三位右近衛中将になっていますが、彼は33歳。比較すると、道長のスピード出世がわかるでしょう。
そして翌年には参議を飛び越して権中納言に昇進します。
兄の道隆(定子皇后の父)がこの地位に上ったのは34歳でした。この違いは、父の兼家が一条天皇の摂政として権勢のトップに上ったことによるものです。つまり道長の昇進はまさに兼家一家の栄華の象徴で、雅信には断る理由などどこにもなかったはずなのです。
では、なぜ『栄花物語』はこのような書きぶりをしているのか? 藤原穆子の慧眼を讃えるためだという説もありますが、穆子は道長より先に亡くなっているので、穆子本人に読まれることを意識したとも考えにくい。