さらなる『栄花物語』のナゾ

さらに興味深いのは、倫子との結婚後の話。倫子が彰子を産んだ後に、もう一人の妻、源明子と道長の結婚の話題を書いているということです。

明子との結婚は史実では倫子と同年(諸説あり)なので、わざと繰り下げているのです。

これは倫子との困難を乗り越えての結婚、道長の昇進、彰子の誕生などを一続きのドラマとして書きたかった一方で、明子の側の女性たちが読むことをあまり想定していなかったことを示しているように思われます。

つまり『栄花物語』で意識されているのは、<穆子―倫子―彰子>の三代、ということが言えるのではないでしょうか。

では倫子はこの後、どのように書かれていくのか?

彼女については、頼通、妍子を産んだことがさらりと書かれていますが、注目したいのは長保二年(1000)に倫子の同母妹・藤原道綱の正妻だった「中の君」の死去の話です。

中の君は男兄弟たちと関係が疎く、彼女を庇護したのは倫子で、道綱夫妻はそのおかげで繁栄していたとしています。つまり倫子は源雅信家の女性家長のような役割を果たしていた、と言いたいようです。

そして倫子は彰子の出産の時に、へその緒を切るという大役を果たしていますが、『栄花物語』には、「これは罪得る事(血や死のケガレを一身に受ける可能性があるから)」なのに引き受けたという『紫式部日記』にはない記述があります。

もう一つ面白いのは『栄花物語』が「望月の歌」の場面、つまり威子の中宮立后の喜びを、意外にあっさり書いていることです。もちろん「とても珍しく、殿の幸いごとだ」とはしているのですが、「望月の歌」もありません。

一方、威子が後一条天皇に入内した時に、倫子が新婚の二人の「衾覆(ふすまおおい、衾〈要するに掛け布団〉を進上する役)」を務めたと書いており、それを「げにめでたき御あへもの(本当にめでたいあやかりもの)」としているのです。