阿川佐和子さんが『婦人公論』で好評連載中のエッセイ「見上げれば三日月」。駅構内が人で溢れ窓口に向かって長い列を作る。何度となくテレビで見た光景、その当事者に阿川さんご自身になるとは思わなかったそうで――。
※本記事は『婦人公論』2024年11月号に掲載されたものです
※本記事は『婦人公論』2024年11月号に掲載されたものです
岡山駅の窓口に向かって長い列ができている。私はその最後尾についた。駅構内は人で溢れていた。一見、落ち着いた様子ではあるが、内心はみんな不安と動揺でいっぱいにちがいない。事実、私もそうだった。
こういう駅の光景を、今まで何度となくテレビの画面で見たことはある。まさか私がその当事者になろうとは思ってもいなかった。
「すごい人だかりだねえ」「……ねえ」
私は同行者であるS子さんと言葉を交わしながらあたりを見渡す。
私とS子さんはつい一時間ほど前、広島駅から東京へ向かう新幹線に乗り込んだ。その日、私はS子さんの旦那様に頼まれて広島での講演を済ませ、帰路についたところだった。
強力な台風10号が日本に接近している。講演会を決行するべきか、中止にするか。事前にやりとりした末、台風の動きが遅いおかげでどうやら広島の天候はさほど荒れることはなさそうだという見通しがついた。
やや不安に思いつつもその日の早朝、私は東京の自宅を出て新幹線で広島へ向かう。途中、徐行運転になることもなく、予定通り広島に到着。雨模様ではあったが、お客さんもたくさん集まってくださり、講演は無事終了した。
本来ならば主催者の皆様ともども懇親会や写真撮影をして会場を去るつもりだったが、「そんなことせんで、さっさと帰ったほうがええて」と背中を押され、挨拶もそこそこに会場を辞した。