3.松野院長の名前を勝手に連発
私は、老人ホームの看護師さんに、次の血液採取の日時を聞いた。
他にも血液採取や診察をする入居者がいて、下の階から入居者を医師が順番に診ていくので、母のいる上の階までは時間がかかるのだと、看護師さんに言われた。
医師が来る日、私は老人ホームに行った。母に「松野先生は重症の患者さんの往診に行き、今日は来られない。代理の先生が来て血液を採るから、大人しく言うことを聞いてね」と言った。母は「そうなの」と理解した。
その週末に施設の看護師さんに聞くと、「お母さんは今回、自分から腕を出して、暴れませんでした。どうなっているのでしょう」とのことだった。
その後、母は意識不明になり、大きな病院に救急搬送されて、入院することになった。担当の医師は誠意のある人だったが、母は我儘を言っていた。それで私はまた松野院長の名前を勝手に使い出した。
「松野先生がお母さんのことを、この病院の先生や看護師さんに頼んでくれたから、みんなの言うことを聞かなくてはいけないよ」と言った。母は大人しい患者となった。
別の病院に転院するときも、「松野先生のすすめだ」と母に言って納得させた。長距離の移動中も母は静かだった。
コロナ禍になる寸前に母は亡くなった。私は松野院長に報告に行き、診察室で撮影した写真を見せて、内緒で撮ったことを謝った。そして、医院の前で撮影した母の写真も見せた。
すると松野院長は、医院の前の写真を両手で持って眺め、「うん、うん」と何度もうなずいていた。その目は優しく、まるで、母の話を熱心に聞いているようだった。
認知症になっても母が松野院長を忘れなかった理由が分かった。
母は松野院長に「人徳」を感じていたのである。