「私は多惠子についたの」
タエコがマスオと別れたとき、白石は中学生になったばかりの娘に向かって「多惠子は詩人であることをやめた。彼女はすごく傷ついた。みんな、満寿夫についていったけれど、私は多惠子についたの」と報告し、宣言した。富岡は別離以来、マスオやその友人たちとは関係を絶っていく。
「母はなんでも必ず私に報告したんです。あとで、『時々忘れるのよね、あの人は。私が彼女についたことを』と言ってました。母が一番早かったけれど、澄子さんも澁澤さんと別れたし、あの時期は、みんな、いろいろ起こってたんですね。うちの両親の場合、離婚したときはふたりともそんなに有名じゃなかったけれど、多惠子さんの場合はメディアが盛り上がっていたときだし、別れ方が痛烈だったし、しんどかったんじゃないかな」
それからは、由子が富岡と会うのはもっぱら母と暮らす西荻のアパートか外になった。
「うちでパーティーするときもしょっちゅう来ていた。詩人の高橋睦郎さん、八木忠栄さんに写真家の沢渡朔さん。パーティーでは多惠子さんがお姉さん役で、一番子どもだったのが森茉莉さん、『由子が茉莉のお刺身とった』とよく責められました。母と多惠子さん、澄子さん、森茉莉さんの4人はいつもつるんでたんです。みんな、お金がなかったけれど、小さなスミレの花束とかガーベラ1本とかプレゼントしあったりして。今ならフェミニズムで語られるだろうけれど、4人ともサバサバして少年っぽい人たちで、気の合うのはわかりました。外国に行くと母はその3人へのお土産をまず考えるんですよ。多惠子さんもどこかへ行くと、『かずこ、これは高いもんやで。プレゼント』と髪飾りなんかを買ってくるわけ。
ただ音楽の趣味はみな全然違う。母はジャズで、澄子さんはジョン・ケイジや高橋悠治、森茉莉さんはシャンソン、多惠子さんは歌謡曲、演歌でしょ。レコード出したときはものすごく喜んでいて、坂本龍一のお母さんが大学の先輩で、『うちの息子使ったら』と紹介されたとか。多惠子さん、『坂本クンと私の歌いたいもんはちょっと違っていた』と言ってましたけど、それはそうですよね」
白石が71年にH氏賞を受賞することになる「聖なる淫者の季節」を論じる鼎談が富岡、白石、合田佐和子の3人で行われている。〈愛がいっぱいだから言うてんのよ〉と厳しく批判し、称賛する富岡。
〈私は白石さんに通俗性が必要だと思った。通俗性というよりも愛想のよさね〉〈私より白石さんのほうがシャープよ、言葉に対する感覚が。私は鈍ですよ〉〈白石さんに較べると、私なんか、いつも俗人だと思って自己批判よ〉(「現代詩手帖」1968年4月号)