涙の披露宴
富岡が、篠田監督と仕事を始めたのは、ちょうど菅と結婚した前後である。68年に「心中天網島」の脚本を共同執筆したのを皮切りに、72年には札幌オリンピック公式記録映画のナレーションのシナリオを担当、 73年「卑弥呼」、74年「桜の森の満開の下」の脚本を共同執筆し、84年「鑓の権三」の脚本を書いた。
由子にとって、富岡と父・篠田の交流は嬉しいことだった。高校卒業後、カナダへ留学し、ロンドンの美術学校で修士号を得てアーティストしての活動を開始し、83年、27歳でイギリス人と結婚した。そのとき、式に出られない父に婚約者を紹介する席に、富岡もやってきた。
「一緒に文楽を見て、4人で中華を食べたんです。父が頼んだんでしょうけれど、きっとチェックにきたんですね。仕事で会うときでも、多惠子さんは私のこと、父に報告してたんでしょう。寺山修司さんと多惠子さんは、両親が別れたあともずっとふたりの友人でした」
由子が両親と同じ東伏見稲荷神社で挙式を終え、開いた赤坂プリンスでの披露宴にも、当然の如く作家は夫とともに列席した。ここでの出来事が、いかにも富岡と白石らしい。スピーチに立った富岡は「母らしくない格好をしている」と白石に文句をつけたのだ。事前に「花嫁より着飾ったらあかんよ」と念を押したのに、白石は渋谷のラモで仕立てたベルベットのドレス姿で、脚のつけ根までスリットが入り、誰よりも目立っていた。
「私は緊張していたのでそれくらいしか覚えていません。スピーチのときから多惠子さん、感激してずっと泣いていました。うちの母も祖父母も他に誰も泣いていないのに」
菅は結婚式に出たことを忘れていたものの、妻が由子へ向ける愛情はよく知っていた。
「由子ちゃんは子どものころは病気がちで、痩せていたから不憫にも思ったでしょうね。アーティストになって喜んでました。僕もずっと作品を見てますが、インテリの作品です。くだらないことしてないんですよ。クールで、すきっとシャープで、いいですよ」