可愛い人だった
富岡と白石の関係は、作家が玉川学園、伊東と東京から離れていくにつれ間遠になっていったが、前述の白石かずこ追悼集で、菱沼がこんなエピーソードを語っている。
〈最後は読売文学賞を受賞した頃(注・2009年)だと思いますね。富岡さんは選考委員だったから、友だちだから渡したと思われるのはとんでもないことだから、かずこさんにしばらく近づかないわよ、みたいなことを言ったらしい〉(「現代詩手帖」2024年10月号)
疎遠になった時期でさえ、こんなふたりであった。富岡は、白石の病気のことをいつも案じていたと聞く。
作家と由子の交流は最後まで途切れなかった。富岡はヨーロッパに行くと由子と会い、由子も日本に戻ると富岡へ連絡することを忘れなかった。2007年5月、矢川澄子が黒姫の自宅で自死したときも、電話で話している。
「澄子さん、亡くなる2、3週間前に私の個展に来てくださって、会ってるんですよね。だから亡くなったと聞いたとき、本当にびっくりしました。電話の多惠子さんは怒ってましたね。静かに怒っている感じでした」
数年前、由子は富岡と最後の電話を交わした。時々電話していた篠田から、「娘に『何かしたら』」と言われたと聞いたようで、すでに筆を置いていた作家は「引退した人に、何かしなさいというのは言っちゃいけない」と由子を諭した。篠田は映画監督を引退し、パーキンソン病で闘病中であった。
「娘とすれば言いますよね。そのときの多惠子さんは、『木志雄の個展をニューヨークでやるので、行くつもり』と言っていて、元気でした」
2023年4月、ロンドンの由子に友人から富岡の訃報が届く。
「みんな多惠子さんを怖いと言うけれど、私には可愛い人でした。パーマなんかかけると『由子、可愛いやろ? お嬢ちゃんに見えるやろ』って言うの。今、母のこと、書くひとがいないんです。多惠子さんや澄子さんが生きていたら書いてもらえたのに……。みんな、いなくなってしまいました」
由子と会って数日後、富岡多惠子や白石かずこと同時代を生きた詩人、谷川俊太郎が92歳で没した。
※次回は2月15日に公開予定です。
(バナー画提供:神奈川近代文学館)