創作の苦しみ
涙の披露宴から2年後の初夏、河野多恵子と旅したロンドンで由子と再会したときのセンチメンタルな気持ちを、富岡が書いている。
〈彼女の親たちよりU子の立場に、わたしはいつも、ひそかに一体化してきた。それは自分に子供がいないために、いまだにコドモだという理由だけではない。自分の親たちが、離婚こそしなかったが、離婚よりももっと悪い状態で暮してきたために、その時の子供の立場を忘れまいとしているところがある〉(『嵐ヶ丘ふたり旅』1986年)
由子のほうは、そうした富岡の気持ちとは距離を置いてきた。
「子どもって、あまりかき回されたくなくて防御するから、そういう多惠子さんの気持ちはわかって気づかないようにしていたんでしょうね。ロンドンの家に来てくれたとき、私が多惠子さんの好きな和食を作ったら、涙を流して喜んでくれて……。これでちょっとは恩返しができたかなと思いました」
そのときのロンドンでは、49歳の富岡が「このごろ、絵を描いてる」と創作の苦しみを、28歳の由子に打ち明けている。
「『小説家というのは頭脳にいろんな引き出しがあって、終わりがないから酷い偏頭痛で苦しむ。終わりがないのがつらい。絵はとにかく葉っぱ1枚描けば終わりというシグナルがくるので、絵を描きはじめたんだ』と、私に言いました。アーティストは半分肉体労働のようなものですけど、私もビジュアルなものをやってるときと、文章を書くときとは違う脳を使っているってわかるから、一方の脳だけ使っていたらしんどいことはわかりましたよね。母にそれを言うと『私は本当に小説家でなくてよかった』って言いました。母は素直にポロポロ本音を出すひとですけど、多惠子さんのことは本当に好きでしたね」