白石かずこと富岡多惠子
2024年6月、詩人の白石かずこが93歳で逝去した。富岡多惠子が逝って1年2カ月が過ぎていた。その年の11月、白石のひとり娘でロンドンに暮らすアーティスト、白石由子(ゆうこ)の姿が、東京ベイにあるギャラリー、YOKOTA TOKYOにあった。由子は母を看とったあと、いったんロンドンに戻り9月に個展をオープンし、再び日本にやってきて母を偲ぶ会に出て、翌日に日本での個展「枝分かれの庭」を開いた。瞑想空間のような作品を見下ろせる場所で、由子は母の友だちだった富岡の話を聞かせてくれた。
1956年生まれの由子の作家との最初の記憶は9歳前後、母に連れられて行った富岡と池田満寿夫が暮らす世田谷区松原のアトリエのパーティーからはじまる。そこにはいつも森茉莉、澁澤龍彦、矢川澄子、野中ユリ、加藤郁乎、鍵谷幸信、巖谷國士らがいて、ときに吉岡実や稲垣足穂の顔も見えた。
「うちはベビーシッターがいなかったから、母がどこへでも連れていくんです。当時は、演劇するひとも文学するひとも音楽するひともすべて交ざっていた。あのひとたちは戦争を知っていて、そこから解放されて自由のありがたみを感じていたからあんな熱い日々を送れたんでしょうね。昼間は西脇順三郎先生のところに行って、夜は土方巽さんの暗黒舞踏を観てと、子どもとしては極端でした。母は西脇先生に可愛がられていたんですが、母曰く『西脇先生の奥さんは多惠子のことをとっても気に入っていた』」
富岡と白石かずこがどこで出会ったのかは定かではないが、恐らく西脇順三郎を通してではないか。富岡より4つ年上、1931年にヴァンクーヴァーで生まれた白石は早稲田大学在学中、20歳のときに第一詩集『卵のふる街』を刊行し、早熟の才を認められていた。富岡が松原に引っ越して西脇と頻繁に交流するようになった63年の夏、親しくなったのだろう。白石が卒業後に結婚した早稲田の同級生で映画監督の篠田正浩と離婚し、やめていた詩作を再開してジャズを伴奏に詩の朗読と、ドラァグクィーンを真似た目のまわりを黒く塗った化粧をはじめた時期。富岡のほうは池田と暮らして3年、マスオが画壇の寵児となっていくころである。