求められる「死の哲学」

島田 昔は、宗教的なことと経済が結びついていて、その核に家制度があった。家の象徴として先祖がいて、仏壇で先祖を供養するという形で家がまとまっていたわけです。そして先祖の供養をして家を守る人が、財産を引き継ぐというシステムがあった。でも、それが戦後のサラリーマン社会になると崩れていきました。

 核家族化しましたしね。

島田 だからどう生きて、どう死んでいけばいいのか、方向性がはっきりしなくなった。現代社会は、それが確立できない状況のなかで、寿命だけが延びている。だから、いろいろ迷うのでしょう。

 今や赤ちゃんを一度も抱いたこともない人や、身近な人の死に接したことがない人が大勢います。始まりも終わりもまったく体感していないのに、「死について考えましょう」と言っても難しいですものね。

酒井 おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に暮らしている人も減っているから、老いを体感することもない。親の介護も、夫婦それぞれが自分の親の面倒をみる。そうなると死も個人化し、死も看取りも、家でやるのではなく、個人的行為になるのでしょう。

島田 家族のネットワークが縮小しています。

 それがいいとか悪いということではない。昔は家制度にがんじがらめにされ、女性はつらい立場だったわけですから。つくづく思うのは、日本人は死に対する哲学が足りない。死について考えないということは、生に対してもあまり考えない、ということではないでしょうか。

島田 それは日本に限らず先進国に共通のことではないでしょうか。従来のやり方が通用しなくなり、すべて個人の選択ということになってきた。けれども、死をめぐってそれぞれが選択するというのは、相当な重荷になってしまう。

 なるほど。ともかく、親の終活についてどこまで話せるかは親子の関係性によっても変わりますが、できたら晴れた日に明るい部屋ですることをオススメします。

酒井 そして親のものも自分のものも、きちんと書き残すとともに、定期的な点検も大事です。

島田 それが、いつまでできるか、ということですよね。

 あまりきちきち考えず、できるところまででいいんじゃないですか。そして、徐々に死について話せるようになったらいいなと思います。

酒井 私みたいに、母の希望を忘れてお墓に入れちゃったりしますし。子どもは信用できないというのが、今日の私の結論です。(笑)