はじめての小説「丘に向ってひとは並ぶ」
〈そういう大ジャーニーをやると、何か日常がふっ切れるでしょ。とにかく持っているものをなくすしかない。賞金稼ぎにしてみたら気がついた時は手元になにもない(笑)。それで帰って来て「中央公論」の編集者に「これから書きますよ」と電話したのを覚えている。(笑)〉(『富岡多惠子集2』「月報」1998年10月)
富岡に「小説を書け」と強く勧めた中央公論の田中耕平は、70年4月に「婦人公論」から「中央公論」へ異動していた。
田中の手元には、小説の進捗状況を報告する富岡の手紙が遺されている。手紙に記された日付は70年12月6日。伝わってくるのは、文体へのこだわりだった。
「もう自信も不安もヘチマもありません。毎日、3枚くらいの量で書くこと、それから1日おきか2日おきに、英語でlove-letterを5枚から8枚くらい書くことですごしておりますが、love-letterの量くらいすさまじく小説が書けたらきっとカネモチになるだろうと思っています。(中略)素朴な英語で考え書くことと、素朴なニホン語で小説書くことは、じつにいいバランスなのです。つまり、素朴でいいニホン語を使うのに、妙にcomplicateしたいやなニホン語をいまちょっとのいてもらいたいからちょうどいいのです。(中略)下賤のヤカラのことばでなにやら書いてみたいと思っているのです」
英語のラブレターの相手はシベリア鉄道のドイツ青年と思われる。小説のテーマにも、次回作にも、触れてあった。
「今度はやっぱり、アメリカ人への素朴なうらみを書くつもりです。今のは別のうらみの種ですが、別のいい方では、空即是空(ママ)みたいです」
田中には、何を書くのか、編集者として富岡と話し合った記憶はない。
「富岡さんはしゃべることによって考えるってところがあるから、きっと僕とくだらないことをしゃべりながら、頭の中がぐるぐる回っていたんじゃないかな。僕が言ったのは、小説を書けってことだけだよ。彼女は、小説を書くのに機が熟してる感じがしたんですよ。やっぱり、そういう時期ってあるんじゃないかな。それを逃すとうまくいかなかったかもしれない」
元編集者には、新人作家の作品を掲載するために企画会議で提案した覚えもなかった。
「当時は総合雑誌の、ことに『中央公論』の黄金時代で、10人くらいいた編集者はみな、好き勝手やってるわけですよね。『これ載っけるぞ』と言ったら、『いいよ』って、編集長以下誰も文句をつけるひとなんかいなかった。あのころの編集者は、そうして勝手にやるだけだったんですよ。それに富岡さんはもう詩壇でちゃんと名前があるわけで、ただ詩は金にならないだけだから、文句を言うヤツなんていないよね」
71年5月、富岡多惠子のはじめての小説「丘に向ってひとは並ぶ」が「中央公論」6月号に掲載された。挿絵に桂川青と、菅の別名がある。同号に載っている小説は他に塩野七生、水上勉、丹羽文雄、芝木好子の布陣で、目次の最後を富岡が飾っており、田中も編集部も人気者の詩人の小説家デビューを後押ししようとしていたことがうかがえる。だが、ひとつ大きな瑕瑾(かきん)を残した。表紙の帯に「新鋭小説 富岡多恵子」と載せたのに、タイトルが「丘に向ってひとは立つ」になってしまっていたのだ。
「帯は別の編集者の担当で、彼が間違えちゃったんですね。僕がしっかり見ればよかったんだけれど、当時はグラビアを全部やったり、表紙やったりして、たまたま見なかったんだよね。僕の不注意で、僕のミスです。そのときは僕、『すみません』と謝っていなくて、富岡さんも何も言わなかったけれど、一生懸命書いてきた彼女に対して、非常に申し訳なかったよね。本当に悪いことをしました」