詩から小説へ


 30代半ばの富岡は実に多忙であった。2作目の小説を発表した翌月、結婚の年に上映されたATG映画、篠田正浩監督「心中天網島」脚本の共同執筆者として、シナリオ賞秀作賞を受賞する。9月には神戸で開かれた「富岡多惠子ファン・クラブの集い」で詩の朗読や講演会、サイン会を行い、10月には篠田監督「札幌オリンピック」公式記録映画のシナリオ班に参加。その間、雑誌や新聞でエッセイを書き、コラムを連載。ラジオドラマの脚本まで手がけて、11月には最初の3作品を収録した初の小説集『丘に向ってひとは並ぶ』を中央公論社から出版した。
 師走に入ってやっと、とっておきのイタリア製の便箋を使い、文房具好きの仲間でもある田中へ「Dear Kohei Tanaka」と呼びかける礼状を送ることができた。12月4日の日付。自分が書いた小説に小説という言葉を使うのははばかられる、と書いてある。
「いくら、敬愛する我がGertrude Stein女史が、新しいものはみにくく、きれいなものはそのマネであるといってくれても、きれいに書ける詩のパターンをうっちゃって、みにくいprose(注・散文)を書くのは、いちおうシンドイことでした。しかし、これには2ツの理由がありました。ひとつは、生きているうえで、ウラミを晴すのに、詩のパターンというイレモノで間に合わなくなったこと、もうひとつは、詩のパターンをわたしはもう滅亡寸前の芸と同様のものに感じていましたから、そのモトを考え直してみたかったこと、この両方から散文は必要でした。しかし、その必要を実際にやってみるまでに10年くらいかかりました。つまり、詩というパターンを借りものでなく、自分の必要とするまでに10年かかりました。いや15年です。ああ、なんというマジメさ」
 富岡は、きっかけを作ってくれた田中に、many many thanksと繰り返し、「散文小説という古いパターンでしかモノ書きのつくるものを見ることのできない」他の文芸誌の編集者に苛立ちを見せる。
 そして近況報告。
「散文を書きはじめて、もとからの陰気くささがひどくなり、たいへんヒトに会うのがめんどくさくなりました。たまたま、自閉症の人間と結婚したので、自閉症のわたしもすくわれています。自閉症児童のわたしが、いかにそうでなくするように努力を強制されていたかはよくご存知と思います。しかし今は、自閉症児の合宿ですから、わたしは明るく暮しています。(ノロケではありませんヨ)ご安心下さい」
 このころの富岡は、対談でもエッセイでも自分たちの結婚を「ふたりでは家庭とは呼べず、合宿」と表現していた。