深々と頭を下げた作家

 中央公論社創業百周年の年、「中央公論一〇〇年によせて」の100人のひとりとして、富岡も一文を寄せていた。生まれてはじめて書いた小説の掲載が文芸誌ではなかったことに触れて、続ける。

〈田中さんは、文字のマチガイや、ちょっとしたいいまわしのおかしなところを注意しただけで、なにも文句をいわなかった。もしあの時、この部分を書き直せとか、文体がどうのこうのと、うるさくいわれていたら、わたしは畏縮する純情がなく、ヤーメタといいかねない無智の厚顔であったから運命は変わっていたかもしれない〉 (「中央公論」1985年1月号)

 この2年前、作家は自身と重ねるように室生犀星論を書いており、詩人が小説家になる過程を調べたという。そのとき、室生犀星がはじめての小説「幼年時代」を「中央公論」に投稿して掲載されたあと、編集者の滝田樗陰が人力車に乗って次の小説を頼みにきたときの感激を読んで、〈「中央公論」の好奇心と寛大さという伝統を体験した者として、それに感激している〉と短文を締めた。
 田中には忘れられない光景がある。77年、富岡が「立切れ」で第4回川端康成文学賞を受賞したときだった。ホテルオークラで開かれた授賞式が終わるやいなや、富岡は会場にいた田中のもとに一目散に駆け寄り、深々と頭を下げたのである。
「僕は、『富岡さん、そんなことやることはないよ』って言ったの。彼女はいっぺん書き出したら、才能があるからとどまることなく書けるんだよね。それは富岡さんの力なんだよ。なのに富岡さんは、ずっと僕に感謝してくれてたんだよね」
  詩作をやめた富岡多惠子は、念願通り、一生懸命になれるもので食べていく道を歩きはじめていた。

※次回は3月15日に公開予定です。

(バナー画提供:神奈川近代文学館) 

   

 

 

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