「中央公論」1971年6月号に掲載された「丘に向ってひとは並ぶ」

目ざましい“女流”新人の誕生

 もうひとつ、この号で目を引くのは、池田満寿夫の随筆「プライベートなアメリカ」だった。〈ニューヨークのスタジオでの筆者夫妻〉と説明したリランとのツーショットも載っている。
 担当編集者は、田中であった。
「富岡さんの最初の小説と、池田の随筆が一緒に載ったのはまったくの偶然です。単に編集上の問題ですね。僕は編集者をやっていて感じたのは、人間の才能ってルービックキューブみたいなもので、カチャカチャやってるうちにとんでもない全然別の顔が出てくるってことで、『中央公論』に移ってから澁澤龍彦や池田満寿夫、赤瀬川原平、水木しげる、稲垣足穂なんかに小説を書けって声かけてたんですね。たまたま池田がそのとき小説ではなく、随筆を書いてきて、じゃあ載せようとなったタイミングが、同じ号だった。富岡さんも、そのことについては気にしていないというか、なんにも言いませんでしたよ」 
 田中に「空即是空」と告げた富岡の小説は、
〈ヤマトの国からきたといっても、ヤマトの国というのはどこなのかだれも知らない〉から始まる。のちに作家は全集の月報で、ひとがどこから来てひとつの家族を作っていくかという原初的な人間の姿への興味と、規格品を生みだすべくシステム化された近代への疑問がきっけになった、と語った。
 家族や血縁、人と人との結びつきと離散という、富岡文学を貫くテーマが、すでにここにある。
 富岡多惠子初の小説は、掲載誌が発表されたその月の読売新聞の文芸時評に取り上げられ、佐伯彰一が高く評価した。
〈不可思議な魅力〉〈ひき込まれる口語的リズム〉〈一体いかなる小説なのか……〉と見出しが並び、こう締めくくられていた。
〈このフシギに柔らかく、軽やかで、しかもナマな現実感を失わない独特な小説的散文をたずさえて現われた、目ざましい女流新人の登場に心からの拍手をおくりたい〉(「読売新聞」1971年5月29日夕刊)
 新人作家は、もう7月には2作目「希望という標的」を井上光晴が編集する「辺境」5号に、9月には3作目「イバラの燃える音」を中央公論社の「海」に発表し、この作品は芥川賞候補となる。
 田中が担当したのは、第一作のみであった。
「あとは、『海』で安原顯が一生懸命やってくれました。富岡さんは、力があったからね。それで、野上弥生子さんがほめてくれたんですよ。野上さんが、中央公論の嶋中(鵬二)社長に『富岡多惠子っていうのは才能ありますよ』と言ってくれたわけ。当時は野上さんというのは文壇でも超がつくくらい別格で、神様みたいな存在だったけれど、そんなことを言うのはめったになかった。嶋中社長にしても自分の父親が谷崎潤一郎を見つけたという自負があるから、ほんとうに才能があるかどうか自分で確認したいんですね。社長に会いたいと言われて、僕、富岡さんに中央公論まで来てもらって、7階にあった『プルニエ』で一緒に食事しましたよ」