木志雄になるまで
菅木志雄は太平洋戦争最中の44年2月、岩手県盛岡市に生まれ、花巻市に育つ。警察官の父・吾朗と、専業主婦の母・泰子、5つ上に姉がいて、1歳違いの兄、5歳下の弟の6人家族だった。後に刑事調査官まで出世した父は単身赴任で不在がち、早くに医者になると宣言した兄が風呂場を改造した部屋にこもって勉強しており、炬燵を囲んでも誰もが無口で、一家団欒など無縁に思えた。
次男の菅は少年のころから野山に出かけて動植物を観察し、田んぼの畦道でポツンとひとりでいるのが好きだった。
「小さなころから親との会話も十分ではなく、きょうだい仲も悪くて、友だちもまったくいなかった。町といっても本屋と映画館があるくらいですから、豊かな才能が開くなんてことはないわけです。映画は親父が好きで、あの当時は警察手帳を見せたら入れたから、一緒に行って夜空が見える天井に穴があいた小屋で2日に1度は映画を見ていた時期もありました。本を読んでいたら幸せで、中学生の時には家にあった日本文学全集も世界文学全集も読破して、空想の世界に遊んでいました。アーティストになったのもそのせいかもしれませんね。見えない世界を知るというか」
大正11(1922)年生まれの母は東京の女学校を卒業し、東京の言葉を話して、女優のように美しかった。教育ママの走りだったが、子どもの志向を後押ししても「勉強しろ」は言わない。警官の父は危険な思想に染まらないでほしいと、「あんまり本を読むな」と言った。60年安保の時代だった。
勉強嫌いで授業中に小説を読み、ノートにイガグリくんやアトムを描いていても、菅は姉や兄と同じ高校に進むつもりでいた。担任に「無理だ」と言われて半年間集中的に勉強し、地元の進学校・花巻北高校へ入ることができた。
「成績は悪くても絵だけは得意だったので、高校で美術部に入って、やっと友だちができたんです。セザンヌの『青い花瓶』を模写したりしていました。くだらない文章も書いてました。そんなだから、きょうだいのなかでは落ちこぼれ。姉は東京に出て勤め、すぐに結婚しました。全国でも有数の成績だった兄は東北大の医学部に一発合格し、アメリカで脳外科医になりました。弟も船員になると決めていた。じゃあ、僕は美術でもやりますかと。他のことより好きだったからね」
多摩美術大学を受験するも、現役では受からなかった。浪人中、ある出来事があった。当時の菅は、乃木希典にちなんで付けられた勝典(かつのり)という本名が大嫌いで、いくつかのペンネームを自分で作っていた。そのなかに爆弾脅迫事件で世間を騒がせていた犯人と同じ名前、草加次郎があったのだ。
「ある日、警察から帰ってきた親父に呼ばれたんです。『お前、最近へんな名前使ってるけれど新聞見たか、お前が爆弾魔か。誰からその名前を教えられたんだ』って追及され、『違うよ、自分で考えたんだよ』と言いましたが、なかなか信用されなくて。しばらくヘンな男がついてきましたよ」
64年、東京オリンピックの年に多摩美術大学絵画科に入学し、川崎市の溝口にある寮に入った。大学進学率は15・5%にすぎない時代、若者文化が台頭し、ビルの建設ラッシュで東京は熱気を帯びていた。
そのころから菅は木志雄と名乗るようになる。
「上京が土方巽の舞踊とか、唐十郎や麿赤兒の紅テントとか、そういう新宿文化にぶつかったんです。当時はジャズの時代だったし、なにかあれば新宿に出て、ジャズ喫茶をはしごして夜を明かし、金がないからテクテクと溝口まで歩いて帰ってました」
67年夏、修学旅行で京都へ向かうバスのなかで、新人作家の登竜門、シェル美術賞1等賞の知らせが入る。
「京都に行ってる場合じゃないよとバスから降ろされちゃったんで、結局、修学旅行には行けずじまい。あれは絵画の賞ですが、すでに斎藤さんに世界先端の美術を教えられていたし、手で描くのはあんまりうまくないなと思っていたから、スプレーを使っています。それが結果的によかったんですね。でも、賞をとっても美術で飯が食えるなんて考えは、全然浮かんでこなかったよね。とにかく卒業したらどうするかが最大の問題でした。だから、僕は多惠子さんに拾われたんです」