どんどんヘンな作品をつくっていった

 卒業の年、68年の夏に美術の世界でもよく知られた詩人のタエコ、富岡多惠子と出会った菅は、翌69年6月に25歳で結婚。70年の夏には、京都国立近代美術館「現代美術の動向」展と東京国立近代美術館の「ジャパン・アート・フェスティバル」で、代表作となる作品を立て続けに発表した。
「多惠子さんのために作品をつくるということはないし、互いに何をしようかなど話したこともありません。僕にとってアートは完全に理念、哲学の問題だとわかった時期なので、最初のころは彼女とそんな話もしたでしょうが、深くはしなかった。僕の作品は難解だと言われるけれど、非常に寡黙な人間だったから寡黙性が反映して作品自体が語ればいい、言葉で作品を語ること自体があまりよくないという思いがありました。多惠子さんはそれがわかっているから『とにかくつくったら』と言うだけでね。彼女もどんどん思考を進化させて小説を書き、いろんなことをやっていたところでした。だから、つくった上で話をするというふうでした。
 多惠子さんは、どんな小さなことでも難しいことでも明確に言ってくれた。美的センスや作品を見る目は確かなもので、聞いてそのとおりにすると間違いなかったので、僕は言われたとおりにしていました。彼女に作品を見る力があるのは、ほんとうに助かりました。だからちょっとヘンかなと思う作品でも気がねなくつくれて、どんどんヘンな作品をつくっていったんです。手元不如意だから、石や木の切れっ端で有名になっていったんですよ。拾ったものを並べて『作品ですよ』と言うと、初期はみな、唖然としていました」 
富岡は、桐島洋子との対談で9歳年下の夫の仕事をこんなふうに伝えている。

〈彫刻やってんですけど、いわゆる一番新しいといわれる観念彫刻というやつで、何やっているのかわからないですよ〉(「サンデー毎日」1972年7月23日号)

 菅は立体的なものをつくりながら、パフォーマンスやイベント(アクティベイション)を表現として提示するようになっていく。73年、パリ青年ビエンナーレで世界デビューし、方向が決まる。絵画でもなく彫刻でもない、新たなジャンルの成立だった。このときのパリ市立近代美術館の南階段に砂利を積み上げた「依存状況」は、「アートではない」と言われ、蹴り飛ばされた。
「そりゃ、階段の真ん中にそんなものを置いてあると邪魔だよね。でも、無視ではなく反応を引き出せたので手応えは感じましたよ」
 現在、菅の74年からのアクティベイションをYoutubeで見ることができる。70年代だけで14本にのぼるが、これらは国際基督教大学(ICU)の学生が結成したビデオインフォメーションセンター(VIC)によって撮影されたもの。ここでは他に紅テント、黒テント、天井桟敷、暗黒舞踏など70年代アングラのパフォーマンスが記録されており、VICのスタートメンバーだった菅の弟、靖彦も撮影者のひとりであった。