弟の目には、そうした兄の創作への激しい傾斜は富岡の影響だと映っていた。
「それは確実だと思います。芸術家としての気質というか、芸術家としてのやり方、過ごし方というか、根本的なことを多惠子さんに叩き込まれたんじゃないですか。多惠子さんがよく言ってたのは、芸術というのは無償の行為をどこまで自分に向けてやれるかだということ。有名になるとか、何か利得のためにやるのではない、と。僕が覚えているのは、何人かで銀座のバーに飲みに行ったとき、もの派の李禹煥(リ・ウファン)が多惠子さんにいろいろ質問して、無償の行為について議論になったんですよ。若い世代にもいろいろアドバイスしていました。やっぱり、彼女の持っている視点というのは尋常じゃない気がしましたね」
作家が「合宿」と呼んだように、そうした富岡と兄の関係は平均的な夫婦像からは遠かった。
「芸術家夫婦ですよね。普通の幸せそうな家庭生活には見えませんでした。多惠子さんには鬱もあったし、気難しいところもあったから、一緒に暮らすのは大変だろうと傍(はた)で思ってましたよね。最初のころは、全面的に支援してもらっているから兄は多惠子さんに何も言えませんでした。ただ木志雄自身が世の中に出るにつれ、だんだん強くなってきた感じがありました」
英文学者の外山滋比古との「結婚というものの中味」と題した対談で、富岡が語る。
〈うんと年下の夫をもって、女が収入が多い場合、亭主に入れあげるとか食わしてやるとかいう意識をもっちゃいけませんね。夫婦はどっちが働いてもいいわけで、何も二人で必死に稼ぐことはありませんよ。そういうことにこだわると、結局だめになるんじゃないかな。自分自身のなかに革命が起こっていて、自分が解放されていれば、自分の一番いいと思う生き方が無理なくできるわけ〉(「婦人公論」1973年5月号)
菅は、「芸術は無償の行為だ」と言う富岡に甘えて生きてきたと振り返る。
「普通は言いますよね、ちょっとくらい稼いでよとか。一切ありませんでしたから。彼女がいなかったら、本当のところ、今の僕はなかったでしょう。生きていることの意味、モノの考え方、精神的な鍛練、何においても僕は彼女からさまざまなことを学んだと自覚しています。子ども時代も学生時代もまったく先の見えないひどいものだったから、彼女の言葉や行動はすべて新鮮だった。もちろん、多惠子さんがいなかったらアート制作を続けていられなかったでしょう。作品の良し悪しなど一度も語ったことはないけれど、僕は勝手にそれをいい方に解釈して好きなことをしてたんですね。
彼女自身、造形意識が豊かだったし、常に新しい表現性を頭に入れていて、美術館に行っても『いい』というものに間違いはなかった。僕はある意味、それを指針にしていた。彼女が見た新しいものとは何なのかということを、僕は無視できなかったんです。表現というのはいつでも新しい側面をもっているものだということを暗黙に示してくれたと思います」
結婚して9年目の富岡の言葉。
〈お互いに相手の仕事には無関心。彼がいまどんなことしてるのかも知らないし、私の方も仕事で出かけるのにどこに行くとか、いつ帰るなんていわない。つまり、出かけたら死んだと同じ。それでも二人で家にいるとき、「きょうは雨やね」というと、答えがある。そんなささいなことで非常に救われる。私は弱い人間だから、やはり二人で暮らした方が快適ですね〉(「読売新聞」1978年4月8日)
菅との結婚生活は、富岡の革命的選択である。作家は「自分たち夫婦の生活を守るために」いくつかのことに気をつけていた。ふたり揃ってなるべく人前に出ない。なるべく家族ぐるみで他人とつきあうことを避けている――。 菅は、このルールを妻が亡くなるまで知らない。
〈夫婦を他人に開放することでひと一倍疲れる弱い人間は、この程度の偏屈でやっと暮らしていけるのである〉(『どこ吹く風』1978年刊)
このころ、ふたりは出会ってから4軒目の家で、愛犬・土丸と暮らしていた。
※次回は3月22日に公開予定です。
(バナー画提供:神奈川近代文学館)