兄と弟
翻訳家である靖彦は、大室高原の家から車で20分ほどの、同じ伊豆に暮らしていた。175センチの菅よりも高い182センチの長身で、菅に面差しがよく似ている。
「船乗りになろうと商船大学に入ったものの、船酔いが激しい体質のため2年でやめています。ICUに入り直して学生生活をおくっていたころに、兄が多惠子さんと結婚したんです。ちょうど彼女が活躍しはじめていて、次々と賞をとっていくとき。ガートルード・スタインの翻訳を一部手伝ったり、坂本龍一の作曲で歌をレコーディングしたときは、スタジオでカメラを回した記憶もあります。可愛がってもらいましたから、ちょくちょく彼らの家に遊びに行って、ご飯をご馳走になりました。ご飯はだいたい兄がショウガ焼きとか作ってましたよ。一緒にテレビを見ると、出てくるひとたちを多惠子さんが批評するんですが、それが非常に面白かったですね」
靖彦は、詩の朗読会や授賞式のあと、大勢のひとたちを引き連れて飲みに行く富岡の姿を覚えていた。サブカルチャーど真ん中、前衛芸術が花開いて、彼女のまわりには大勢の表現者がいたことが、アングラを撮りはじめるきっかけとなったという。兄のイベントを撮るようになったのにも、理由があった。
「少年時代の木志雄というのは、ガリ勉の長兄に比べられて何かと言われたものだから、反発を覚えて別の方向で生きようという思いが強かったんじゃないですか。ただ、絵を描くと普通のひととは違ってすごい迫力があって、煩悩のようなものを感じたほど。僕は絵の宿題は、全部兄にやってもらっていました。彼がパフォーマンスを始めたときは、その場限りで終わってしまうものだから、形として残すためにはカメラに収めるのが一番いいかなという思いがあったし、芸術家として上昇気流に乗る兄を助けたいという気分もありました。
やっぱり、すごいことをやってると思いましたよね。既成概念を壊すという発想で、まとまった作品を展示する場所だった画廊からホースで水を外に撒くみたいなことをやっていて、かなり先鋭的でした。生活と創作が一体というか、絶えず創作活動みたいなものを頭のなかで展開していて、道を歩いていても何かに気づくとスッとそれに注目したりは、しょっちゅうでした。普段の生活から創作に集中していたんじゃないかと思いますね」