窓から大きな海が見える書斎
伊東市大室高原の麓に建つ3階建ての広々とした最上階が、富岡多惠子の書斎だった。三方を背の低い書棚が囲み、北を背にして横長の大きな木の机を前に座れば、東の窓からは大きな海が見える。天井には16本の蛍光灯、デスクの上には、筆記用具や辞書が積まれ、読書スタンドが立てかけられて、原稿用紙が置かれていた。市販の丸善のもので、ネームは入っていない。
暮らしはじめた当初は海側を向いて書いていたのを、あるときに机の向きを換えたのだと、菅木志雄は教えてくれた。
「一緒になって何度も引っ越しましたが、多惠子さんは広いところが好きですから、どこに行っても一番広い、一番条件のいい部屋で仕事をしていました。僕が転がり込んだ若林のマンションでも、板張りの大きな部屋で書いてましたよ」
家は傾斜の強い土地に建っており、作家の書斎は西側にある玄関からは2階だが、海側からは3階のようでもあり、中階はリビングに和室、キッチン、バス、トイレ。その下の階がアーティストのアトリエだった。海側にある庭に直接出ることができる。
「庭の草刈りは僕の仕事。多惠子さんは庭には降りてこないで、上からここが刈れてない、あそこが刈れてないって指示するだけ」
菅のアトリエは薄暗くて、昼間でも電気が必要だった。大きなテレビにデスクがあり、そこここに電池の切れた腕時計がオブジェのように何十本とかけられている。美大生時代からのミューズ、藤圭子の写真が飾られ、あちこちに工具が置かれている。一見無秩序だが、整えられている。奥に進むと、何本もある木製の本棚に本がぎっしりと並んでいた。作家の本棚とまるで傾向が違って、そこを埋めるのは哲学書や仏典であった。
「多摩美で斎藤義重先生に出会ったことが僕の将来を決めたのですが、現代アートにいくとき、美術の今ある認識や概念を再検証して、自分には何が必要なのかを考えた。つまり、創作理念を確立することが作品制作の根本で、そこが僕のアートの出発でした。京都学派の西谷啓治の哲学書に、モノとは何かって書いてあったんですね。それを読んだときに、アートにおいてイメージなどの創作上の作為は何も必要じゃないんだ、とバーンと弾かれた。想像力とはモノをどう考えるかなんだと思ったわけです。そこからモノとは何だろうと考える段階に入って、いろんな哲学書や大乗仏典、仏教哲学,インド哲学を読みました。
ちょうど多惠子さんと出会ったころでした。70年代はふたりであちこち引っ越ししながら、僕は読んで、作品を作っていたんですね。それは苦しいけれど楽しい時間でした。いちいち触るモノをこれはいったい何かと、自分なりに規定していくわけだから。僕の原動力になってます。そもそもが、やたら本と映画が好きで、妄想癖のある子どもだったんです」