坂本龍一と(撮影・荒木経惟 「婦人公論」1977年4月号)

大学院生の坂本龍一と

 増刊号にはさらに「多恵子抄」とタイトルのついた荒木経惟によるモノクロ写真が、撮影日記とともに8ページ掲載されている。カラーの表紙は、荒木が撮った写真をデザイナーの田辺輝男がコラージュしたもの。
「僕はアラーキーが大好きなの。富岡さんを撮るのは、アラーキーしかいないと思ったの。神楽坂や新宿で撮ったんだけれど、最初は川崎の自宅でした。アラーキーは眼帯持ってきてたんですよ。いいな、さすがだなぁと思ったの。眼帯つけた富岡さんが増刊号に載ってますけどね。本当はアラーキー、ヌードか水着を撮りたかったんだけど、富岡さんは一言、『夫が反対しますから』とはっきり言ったの」
 この年の11月から12月にかけて池袋の西武百貨店で荒木の写真展「多恵子抄」が開催されることになるのだが、菅も写真家がやって来た日のことを覚えていた。
「荒木さんもまだ駆け出しのころで、手作りの写真集を持って多惠子さんのところに来ました。裸の写真を撮りたいと。多惠子さんは文章家として売り出し中でしたから、よい対象と思ったんでしょう。彼女は『夫に聞いて』と言ったので、もちろん、僕は許しませんでした」
「多恵子抄」見開きの写真は、菅の作品の残骸が散らばる庭の真中に置かれた椅子に座ったワンピース姿の富岡である。美しい脚、彼女から離れようとしない犬が横を向いた瞬間に撮影したと、荒木は書く。
 川崎では、自宅周辺の電話ボックスの前で立つ着物姿の富岡なども撮影されているのだが、同じ年の秋、同じような場所で、荒木経惟は再び富岡多惠子を撮ることになる。富岡の最初にして最後の歌のアルバム「物語のようにふるさとは遠い」のジャケット写真である。ジャケットには、まるで雑木林のような庭で、誰かが持つ白い紙をバックに、とっくりセーターにスカート姿の富岡が腕を組んで立つ写真が使われている。
 八木が、再び立ち合った。
「富岡さんの後ろで白い大きな紙を持っているのは、菅さんなの。歌のレコードを出すときの富岡さんは、半ば本気で『もし紅白にお声がかかれば、もちろん出ます』と言って、はりきってました」
 ピンク・レディーとニューミュージックがブームだった77年2月、富岡が12曲を作詩して歌ったアルバム「物語のようにふるさとは遠い」がビクターレコードから発売される。ジャケットのデザインは菅木志雄。前年から雑誌や新聞が話題にしており、「週刊女性」のインタビューでは、41歳で自作自演の歌手デビューする理由を彼女は「自分の言葉に対する考えがあって」と説明した。
 この年の「婦人公論」4月号のグラビアに富岡が登場したときの撮影者も荒木で、扉の富岡の名前の横には「詩人・小説家そして歌手」とあった。長髪のピアニストの横で富岡が歌うレコーディング風景が大きく掲載されているが、編曲・作曲者のキーボードは、YMOが世界を席捲する数年前の、東京芸大大学院作曲科在学中の坂本龍一、24歳。横には、フォークシンガー、三上寛の文。三上寛とは73年に対談し、「詩の世界の野口五郎」と讃えていた。
 富岡の全集の第1巻には詩が収録されており、その最後がアルバムの歌詞という構成である。月報で、それは歌詞と詩の溝を越えようとした失敗の証かと聞かれて、富岡はうなずく。

〈自分の詩とも歌詞ともつかないようなものを、特別に作曲してもらって、それもいわゆる歌謡曲のパターンでなくていいなんていっておきながら、難しくて歌えない、素人だから。(中略)なんといっても歌手が素人だったというのが失敗だけれど、そういう実験をとにかくやれるときはやっておこうと思った〉(『富岡多惠子集1』「月報」1999年4月)