「現代詩手帖」富岡多恵子臨時増刊
ロッキード事件が世間を賑わせ、日本の総人口の半分を戦後生まれが超えた1976年の春、思潮社から「現代詩手帖 5月臨時増刊 富岡多恵子」が刊行された。編集長だった八木忠栄は、71年に小説を書いて以来、詩作をほとんど絶ってしまった富岡に、企画が立ち上がった時点で小詩集「春先の風」として10編の詩の書き下ろしを強引に頼んでいた。
富岡はそれまで断り続けていた詩作を引き受けたと、八木は振り返る。
「そんなに苦労した覚えはなくて、きっちり10編いただいた。でも、もう本当に不機嫌な詩ばかりでした。『死』や『暗闇』『のろい』『ナミダ』『うめき声』などネガティブな表現が目立ってね。それは、これまでの詩にもいえることですけど。増刊は、小説のほうで活躍しはじめたこともあって取り上げたかったんです。富岡さんについて30人以上のひとに、書いてもらったの。野坂(昭如)と絶対に対談してほしかったので頼んだら、野坂さんには、すぐに引き受けてもらえました」
増刊号の扉は、富岡の顔を描いたエッチングで西脇順三郎作。巻頭の富岡の詩にはじまり、西脇、富士正晴、小島信夫、河野多惠子、佐伯彰一、田辺聖子、小野十三郎ら文学者に、当時、富岡が暮らす川崎の一軒家の家主でグラフィックデザイナーの粟津潔ら、そうそうたる表現者たちが寄稿した。野坂との対談タイトルは「書くこと・生きること」。夫の菅木志雄が全編のカットを担当し、天沢退二郎、大岡信、谷川俊太郎、三木卓の20ページにわたる座談会は富岡の詩と小説を語って、大岡が最後にこう結論を下している。
〈いずれにしても彼女は、ちょっと舌を巻くくらいうまい作家だと思う〉〈あんなに見えちゃったら困るだろうなって〉
富岡の幼少のころからの写真を集めた8ページにわたるアルバムがあり、他ではほとんど見られない菅とのツーショットも公開された。3つ折りになった目次の左肩にも、暖かそうな帽子をかぶり、凝ったニットを着せられた2、3歳の富岡がちょこんと立っていた。
「富岡さん、よく揃えてくれたの。古い資料やアルバムを探し出しながら、『過去にさわると手が汚れるなあ』と呟いたの。すごい言葉。富岡さんらしい名言です」
巻末に収録されている「富岡多恵子年譜」には、作家が詩人としてデビューしたころに詩の雑誌に書いた文章などが要所要所で引用されており、生い立ちから池田満寿夫との生活、菅との結婚、仕事はもちろんプライベートな旅行までもが詳細に記録されて、読みごたえ十分。八木がまとめたものだが、その後、90年代に出た講談社文芸文庫でも彼の手による年譜が使われている。
「富岡さんが書いたものは、全部とってたんですよ。富岡さんは、自分で整理するのが嫌だから、八木に送れば整理するだろうと思って、なんでも送ってきたの。だから、それをその都度、何年何月号に何を書いたのか、初出も調べて確認して、ノートにつけてね。あのときの年譜はその富岡多惠子ノートからとったの。そこからもずっとつけてました。彼女が筆を折ってからはやらなくなったけれど、ノートは今もどこかにありますよ」