出会うべくして出会ったひと
2015年の1月、八木は、東京都現代美術館で夫の展覧会が開かれたときに東京に来ていた富岡と落ち合った。50年来の編集者と作家が会った最後だった。
「富岡さんとは本当に濃密な関係だったと思うけど、伊豆に移ってから会うことが間遠になりましたね。僕も一回だけ伊東に行ったけれどね」
このときの富岡はちょうど80歳、傘寿を迎えようとしていた。実は5年ほど前に、作家は突然「もうやんぺ」と言って筆を折っていたのである。長く深いつきあいの編集者にも、そのことは告げなかった。
「何も言わないで黙って筆を置いたのは、いかにも富岡さんらしい。僕も75歳で書かなくなったと知ったときはショックでしたけれども、でも、それも富岡さんらしい。要するに入滅みたいなもんだね。病気なんかで死ぬんじゃなくて、本当に書く人生を全うした。本当にすごい。詩を書いて、たくさんの小説を書いて、ひとのこと、評伝を書きはじめて。もう書くことないじゃないですか。過去のことについての要請にのって書くようなひとじゃないし、年をとってどうのこうのってのも一切言わないひと。もうやめるしかないでしょ。今にして思えば、最後の小説『ひべるにあ島紀行』を書いて、折口信夫の評伝『釋迢空ノート』を書いて、そうして終焉していったのだと思います。ま、いつまでも詩を書いてりゃいいというものでもありませんが。僕は82歳でいまだに詩を書いてる。みっともない」
中川浩子は、富岡の断筆をそう驚かなかった。
「77年に女性誌で、『やがてやめたい』と話しておられるのを読んでいました。あのとき、富岡さんは42歳ですよね。2008年に芸術院会員になられたときに、これで生活は大丈夫だな、おやめになるかもと思った記憶があります。若い愚かな私と密接に結びついているので富岡さんの本を読み返すことはずっと避けていたんですが、最近になって再読しています。『丘に向ってひとは並ぶ』も50年ぶりに読み返しました。面白いというより、わかり過ぎるくらいですね。これから書いていこうというもののレジュメになってるなと思いました。
富岡さんとは家庭環境も違うし、私はずっとシングルですが、富岡さんと出会わなければ人生は違っていましたよね。出会うべくして出会ったと、感謝しています」
最初の編集者で生涯の友人だった八木忠栄も、ファンである中川とまったく同じ言葉を口にした。
「僕にとっては出会うべくして出会ったひとです。詩で出会って、富岡さんは詩にとどまってはいなかったけれど、やめてからも彼女の書くものには詩が流れてますよ。だから僕にとっては、今も富岡多惠子は詩人です。富岡さんとの出会いがなければ、つまらない編集者でしたね。やっぱり、すごい出会いでした。学ぶことが多くてね。単なる編集者の枠を超えて、ずっとその人間に入り込んでいくことができた。そこまで許容してくれたひとでした。ああいう精神のひとは、そうはいないですよ」
富岡多惠子が87歳で亡くなったのは、23年4月8日。その11日前、坂本龍一も71歳で逝ってしまった。
※次回は4月8日に公開予定です。
(バナー画提供:神奈川近代文学館)