夫の頭上で薬玉が割れた瞬間
サッカーに夢中になるばかりでそれまで野球の「や」の字も興味がなかった翔大が、小3の時見ず知らずのよその子のように突然
「野球、やってみたい」
と言い出した。
私は今でもこのとき翔大が何を思って、何をきっかけに野球がやりたくなったのか、全く思い当たらない。父とはそれまでほとんどキャッチボールもしたことがなかった息子だ。
まったく訳がわからなかった。
あまりに急にそんなことを言い出したので、きっと私の見えないところで父親が翔大に催眠術でもかけたんだと思った。
でもあの時、翔大が初めて「野球やりたい」の「やき…」くらい言いかけたところで、夫は速攻で携帯から誰かに電話をかけ始めた。
正確に言うとその言葉が翔大の口から出た途端、「おお」なり「ああ」なり相槌を打つより前に知り合いのメーカーさんに電話して、子ども用のバットとグローブを注文していたのだ。
夫の頭上で明らかに薬玉が割れた瞬間だった。
まだ自分の名前を漢字で書けるようになったばかりの息子が、きっちり父の心の奥底の願いを叶えてくれたのだ。