遊女の子が応仁の乱を招いた?

源平合戦の頃には白拍子という存在がありました。

平清盛に愛された祇王や仏御前、源義経の愛人だった静御前、後鳥羽上皇に仕えた亀菊などが有名です。

男のように立烏帽子をかぶり、水干を着して、白鞘巻を腰に差して今様や朗詠を歌いながら舞を披露しました。男装しての歌唱にダンス、と聞くと、さしづめ宝塚のよう。

彼女たちは大きなくくりでいえば遊女なのですが、高度な歌舞の技術を有していて、貴紳(きしん。身分や名声のある男子)と関係を持つ者も少なくありませんでした。

室町時代の遊女で、ぼくが特に興味を引かれるのは土用でしょうか。

彼女は高級な遊女で、守護大名などと関係を有し、信濃の小笠原長将との間に持長を、飛騨の江馬氏との間にも子をもうけている。また幕府の管領を務めた畠山持国との間にも義就をもうけています。

持国は義就について「本当におれの子か?」と疑問を持ったのでしょうか。自邸では育てず、石清水八幡宮に預け、社僧にするつもりでした。

ところが後に会ってみると、自分に似ていたのかな、改めて畠山家に迎えました。このため、持国の後継を巡って義就といとこの政長の争いが起き、それが応仁の乱へとつながっていきます。