神仏習合がさらに進む
聖武天皇によって進められていた東大寺大仏造営事業では、神々を代表して奉仕するという八幡神の託宣があり、749(天平勝宝元)年に宇佐八幡宮の禰宜尼(ねぎに)が八幡神を奉じて入京したことで朝廷との関係が深まり、中央進出のきっかけとなりました。
769(神護景雲3)年には、朝廷内で権力を握った僧・道鏡の皇位簒奪(さんだつ)を八幡神の託宣が阻止しており、朝廷の守護神としての性格を強めています。
8世紀後半になると八幡神は「菩薩」と自称する託宣を下しました。菩薩とは、仏になることができるにもかかわらず、迷いの中に生きる生類、「衆生(しゅじょう)」を救済するためにあえて仏にならずにいる存在とされています。
781(天応元)年に八幡大菩薩の神号を朝廷から奉られると神仏習合がさらに進み、大和や京近隣の有力寺院の鎮守社として勧請されました。これ以降、菩薩を号する神が全国に多数現れるようになりました。
860(貞観元)年には八幡神の託宣を受けた僧侶・行教(ぎょうきょう)によって山城国(現在の京都)に勧請されました。「石清水八幡宮護国寺」と称し、明治維新後に神仏分離が行われて破壊されるまで護国寺は本殿と一体でした。
僧侶でありながら妻帯(さいたい)し、世襲する別当が全体を治めるという神仏習合らしい体制でした。こうした形態を「宮寺(みやでら)」といい、各地に広がっていきました。