売れっ子エッセイスト
小説家としても衆目を集める作家の周囲には、その才能を愛する編集者が集まっていた。中央公論社の下川雅枝もそのひとりで、新書から文芸に異動になったとき、まっさきに川崎の生田に暮らす富岡を訪ねていた。作家が女流文学賞を受賞する1年前である。
田辺聖子や宮尾登美子などの担当編集者でもあった下川は、富岡より1世代下であった。
「もともと好きで『わたしのオンナ革命』や『青春絶望音頭』を読んでいたので、お会いしたんです。60年代が終わり、70年代に入ってまた違う文化が生まれていましたが、富岡さんは時代をすくうのがうまくて、富岡さんの仕事や発想に共感するひとは多かったと思います。『婦人公論』を出し、女流文学賞を主宰する中央公論社は女性作家を手厚くもてなしていて、それだけに野上さんや円地さんなど先輩作家がたくさんおられて、富岡さんは小説家としてはまだまだ新進でした。小説はなかなか成立しないので、『とりあえずはエッセイをまとめていただけませんか』と、お願いしました」
下川がつくった富岡の最初の本は76年1月に出たエッセイ集『女子供の反乱』。装丁は、富岡の夫、菅木志雄に依頼した。
「ちょうど菅さんが都内のギャラリーで個展をはじめられたころですね。富岡さんのエッセイはよく売れて、すぐに増刷を重ねたのを覚えています。坂本龍一の名前を知ったのも富岡さんがレコードを出したから。あのLPを出すときは、ものすごく喜んでおられました。本人はそういう見せ方に熱心じゃなかったけれど、当時の富岡さんはスターですからね。ただそれゆえに、正統と認められるまでには時間がかかりました」
77年、「群像」掲載の「立切れ」により川端康成文学賞を受賞した富岡は、その3カ月後、粟津潔から期限つきで借りていた川崎の借家から、町田市玉川学園の一軒家へ転居した。菅曰く、「駅から5分の高台という近さが気に入った」分譲地にミサワホームで建てた家で、夫妻にとってははじめての持ち家であった。
下川が担当したエッセイ集『兎のさかだち』に、富岡の価値観を表すこの一文がある。
〈わたしは家を建てることに決めた時から、工場で大量生産によってつくられてくるプレハブ式の家にしようと思ったのだった。よく工事現場につくられる飯場の建物のようなつくり方である。勿論、安いということもあるが、素人の見えないところでの柱のふとさや材料の良し悪しを気にしなくていいからだった〉(「家」『兎のさかだち』1979年刊)