谷崎潤一郎賞候補作『遠い空』
引っ越しの日には、富岡の才能を高く評価し、『冥途の家族』を書かせたのちに編集長となる「群像」の辻章が若い編集者を5人ほども引き連れてやってきたという。下川も、富岡の本をつくりたいと望む新潮社の伊藤貴和子と馳せ参じたが、この引っ越し手伝いは印象的な体験だったと苦笑する。
「引っ越し屋さんが来るのに準備ができてないから、どうするの? という感じで。広い庭には菅さんの作品と材料の枯れ木がボロボロと落ちていて、富岡さんはそれを見て『腐ったアートやわ』と呟き、椅子に座って愛犬の土丸を抱いて『つっちー』と言ってるだけ。まさに詩人でした。菅さんは自分の作品や道具をまとめることで精一杯なので、辻さんがすべて指揮され、講談社グループは荷物とともに新居のほうへ移動して、私たちは残って後片付けを引き受けました」
その当時、中央公論社の文芸誌「海」の編集長は、政財界に影響を持ち、日本の論壇を動かして、中央公論のエースといわれた塙嘉彦だった。ある日、塙は下川に「富岡さんのところへ行きたい」と言ってきた。下川が塙と玉川学園を訪れたのは、冬のひどく寒い日だった。東大仏文で大江健三郎の学友だった塙は作家と同じ年の早生まれで、話は盛り上がり、寒さに弱い富岡がしゃべることに夢中で暖房をつけるのを忘れるほどであった。
「お宅を出たとき、塙さんが『外の方が暖かいね』と笑っておられたのを覚えています」
のちに富岡は全集の月報で、塙と東北に取材旅行に出かけたことが、『遠い空』に所収された作品のきっかけになったと語った。「海」に掲載された「遠い空」「末黒野」を指すのだろう。
しかし、「海」に「末黒野」が載った80年3月には、塙はもういなかった。白血病のため、1月に45歳の若さで急逝していた。下川は、塙の葬儀にやってきた富岡が冷たい外でポツンとひとりで佇んでいた姿を覚えている。
「塙さんが生きておられたら、その後、いろいろ変わっていたと思うんですね。富岡さんも」
兼業農家の寡婦のもとにしゃべれず、聴こえない男がやってきては性行為を迫る--「遠い空」は、東北に起こった殺人事件を題材に生きることの尽きない悲しみを描いた短編である。富岡の代表作のひとつに推すひとも多く、82年度の谷崎潤一郎賞候補作となった。下川はこの作品ならば受賞できると確信し、また受賞してほしいと願って、単行本にするときも装丁を菊地信義に頼んで力をいれてつくった。だが、受賞はならず、大庭みな子の「寂兮寥兮(かたちもなく)」に譲った。
「最終選考までいったんですが、受賞に至らなかった。富岡さんは人気詩人で、エッセイストとしても売れていて、しかも池田満寿夫さんとのことは誰もが知っていた。何か流行りもののように映ったのかもしれません。谷崎賞には馴染まなかったんですね。今のようなマルチでやることがあたりまえの時代ではありませんでした。エッセイストから小説家への転身は、とても難しかったんです」
富岡の作品は、翌83年『波うつ土地』が、86年『水獣』が、88年『白光』が谷崎賞候補になるが、いずれも候補で終わっている。
谷崎潤一郎の文学的功績を称揚して創設された賞は、小説至上主義的な特別な賞だった。初の女性として芥川賞の選考委員に河野多惠子と大庭みな子が、直木賞の選考委員に田辺聖子と平岩弓枝が加わったのは87年のことで、それ以降選ばれる作品の傾向も変わっていくが、日本ペンクラブ会長が桐野夏生、日本文藝家協会理事長が林真理子という現在とは違い、あの時代の文壇は男性中心社会であり、なかには富岡をはねっかえりの女と見るひともいたろう。