女流文学賞受賞『冥途の家族』
1958年、22歳のときに史上最年少、初の女性受賞者として詩人に与えられるH氏賞を受賞した富岡多惠子は、26歳で室生犀星詩人賞を受賞。74年、38歳で、はじめて書いた長編小説「植物祭」で、田村俊子賞を受賞する。
若くない女と若い男の恋はそれだけでは終わらず、娘と母、息子と母の関係へ収斂されて、「母性神話」の欺瞞があらわになっていく。「毒親」という言葉などない時代である。受賞式で選考委員の武田泰淳は「諸行無常を感じさせる」と評し、草野心平は「H氏賞のときもユニークな作品だったが、この作品は革命的な小説」と絶賛した。
芥川賞には、71年の「イバラの燃える音」以来3期続けて候補になっているものの、落選した。作家は最後のインタビューで、自分の小説家としての器の小ささの例として、芥川賞体験を回顧している。
〈芥川賞の候補に残ったときに、お寿司屋さんで選考結果が出るまで待機してくださいって言われたのよ。私、むかっときて即座に「下ろしてください」って言ったの。勝手に候補にしといて、どこで待てとか、……ちょっと私、それ、下ろしてくださいって言ったの覚えている。そういう態度は、嫌われるね〉(『私が書いてきたこと』2014年)
田村俊子賞受賞の半年後、立花隆の「田中角栄研究」が掲載された「文藝春秋」発売で世間が騒然となった時期に、芥川賞とは縁のなかった富岡は、自伝的小説『冥途の家族』で女流文学賞を受賞する。女流作家の登竜門といわれた賞で、島本久恵『貴族』、曽野綾子『奇蹟』、高橋たか子『没落風景』のなかからひとり選ばれときには39歳になっていた。
選考委員は井上靖、円地文子、佐多稲子、丹羽文雄、野上彌生子、平野謙。井上靖と丹羽文雄は、大岡昇平、瀧井孝作、中村光夫、永井龍男、舟橋聖一、安岡章太郎、吉行淳之介と並んで富岡が候補になったときの芥川賞選考委員でもあった。
選評で野上彌生子が書いている。
〈曽つてなく満場一致の決定であつたことによつても、特異に美事な価値が立証される。(中略)私は富岡さんの作品には頭を下げてゐる〉(「婦人公論」1974年11月号)
井上靖も記す。
〈やはり詩人としての持っているものが下敷きになっていなければ、こうした文章は成立しなかったろうと思う。余分なものは一切書かれていない。夾雑物もきれいにより分けられて捨てられている。みごとだと思った〉(同)