作家になった
ハワイから戻った富岡は水泳とテニスとエレクトーンを習うことで自己治癒に努めながら、満を持して自身の女性論ともいうべき「藤の衣に麻の衾」を、「婦人公論」83年1月号からスタートさせた。富岡に「書きたい」と言われた下川は、構想を聞いてすぐに賛同し、当時「婦人公論」にいた田中耕平に相談して舞台を用意したのである。
冒頭にケイト・ミレットが登場する随筆は、十数年前、ウーマン・リブの時代に「傍観者」を自称した富岡がフェミニズムの台頭に刺激を受けて、「性」と「結婚」と「主婦論」を語っている。
〈わたしは、七〇年代のはじめごろから、小説を考え、小説を書いていくうちに出てくるわからない問題を、文学の内輪だけで考えていてはとうてい出口がないと直感しました。それだけでなく、現実の自分が生きていくのにわからぬことが次々に出てきますが、それらを考えていく自分のためにも、もっと時代と社会の移行を知る必要にせまられたのです。試行錯誤するフェミニズムの論考から学んでいったのも、この時代の重要な思想だと直感したからです〉(『西鶴のかたり』1987年)
72年の『わたしのオンナ革命』で〈性を情緒として教えてもなにもならない気がする〉と書いた作家は、ここで〈一度はっきり、性を生殖から離して考える必要がある〉と宣言。ひとつの代表作になると意気込み、編集者もそれに共鳴したが、「藤の衣に麻の衾」は評判にはならず、単行本も売れなかった。
「時代が早すぎたんですね。富岡さんも、考えはできていても表現方法がまだ模索中でした。それにしても、もうちょっと反響があってもよかったと思います。ただこのころから富岡さんは作家になっていったのかもしれません。読者が『ボーイフレンド物語』などのエッセイに期待する内容ではなく、富岡さんのほうは小説世界へ入ってしまっていたとも言えます。そのころ、次の仕事をお聞きしたら、大阪の漫才作家の秋田實を『書きたい』とおっしゃったので、ちょっと驚いた記憶があります」
『藤の衣に麻の衾』の単行本は、菅のつくったオブジェを使って菊地信義が装丁している。下川は、富岡作品の装丁やデザインに菅を起用することが多く、当初は作家とのつきあいもあったものの、菅作品そのものを評価するようになっていた。文化人類学者の青木保の本でも、表紙に菅作品を使った。
「富岡さんが声をかけてくださることもあって、菅さんの個展にはよく出かけていました。菅さんのデザインはとてもモダンで、あのお人柄もあって段々積極的に描いてもらうようになっていきました。富岡さんは『腐ったアートやわ』となんて言いつつ、菅さんをとても気づかっておられたと思いますよ」
下川がつくった富岡多恵子の本は、エッセイ集が『女子供の反乱』『兎のさかだち』『はすかいの空』『藤の衣に麻の衾』の4冊で、小説が『砂時計のように』『遠い空』と『雪の仏の物語』の3冊、計7冊である。92年に刊行された『雪の仏の物語』は作家が山形の出羽三山の寺まで取材に出かけた即身仏の話で、今度こそ谷崎賞をと期待した作品だがダメだった。下川が担当した最後の富岡作品となった。