女流文学賞を受賞したころ(1974年12月撮影)

激しい鬱とハワイ静養


 はじめての谷崎賞候補となった前年の81年、富岡は激しい鬱になって、暮れから2カ月半ほど菅を伴いハワイへ療養に出かけている。『室生犀星』の執筆を、中断してまでのことだった。同年3月から共同通信の配信で全国6紙の夕刊に連載した新聞小説という形態が病的なほど時間厳守にこだわる自分に合わなかった、と作家は書いており、こんなことも語った。

〈あの時はハワイの浜辺で、本当に廃人になるんじゃないかと思った(笑)〉(『女の表現――富岡多惠子の発言3』1995年)

 下川は、新聞連載のスタート前から「砂時計のように」の単行本化を約束しており、足繁く玉川学園に通っていた。富岡の家に行って一緒に散歩に出かけ、馴染みの喫茶店ジローでお茶をし、時には買物に出かけるのがいつものコースで、とにかくよくしゃべった。
「大阪時代の学校の先生の体験を、面白おかしく話してくださいました。池田さんとリランとの関係が世間で話題になったときは、『これで、池田満寿夫の前妻と呼ばれることはなくなる、よかった』と喜んでおられました」
 しかし、躁鬱の傾向があった作家はある時期から急激に体調を崩していった。
「ご飯も食べられないときがあって、せめて食事をとってほしいとジローにお誘いするのですが、途中で気分が悪くなって何度もお家までお送りしました。作品の悩みに加えて体の変化期などもあったのでしょうか」
 このときの菅は、実のところ、妻の体調の悪さがそこまで深刻だとは気づいていなかった。新聞連載で得た収入をすべてつぎ込んでのハワイ行きも、長い休養だと受け止めた。
「もともと気が激しく落ちるひとだから、ずっと家で書いているとしんどくなるよね。下川さんや八木忠栄クンが来て話し込んでいると楽しそうにしているから、編集者が来てくれることは僕にとっても非常によかった。……多惠子さんが、ハワイのホテルのベランダから海を眺めている姿を思い出します。僕がもっと気のつく人間だったら、もうすこし多惠子さんの生きる道を楽にしてやれたのに」