並の才能ではなかった
この時期から下川は富岡と少しずつ疎遠になっていく。作家はバブル崩壊直前の89年に、伊東へ転居していた。宮尾登美子が爆発的に売れ、田辺聖子の評伝取材に常時同行するなど編集者は仕事に忙殺されて、しかも遠い伊東となれば、以前のように富岡のところへ通っていけなかったのだ。
「そのあたりから出版業界は不景気になっていて、中央公論社も変わっていきました。富岡さんはパーティーにもいらっしゃらないので、お会いする機会も少なくなっていきました」
下川と仕事をすることがなくなって以降、富岡は94年『中勘助の恋』で読売文学賞、97年『ひべるにあ島紀行』で野間文学賞、2001年『釋迢空ノート』で紫式部文学賞と毎日出版文化賞、04年日本芸術院賞、05年『西鶴の感情』で伊藤整文学賞、大佛次郎賞と大きな賞を次々と得ていった。作家としての地位を確立したかに映る。
それでも下川には、評価されるのが遅すぎたという気持ちが拭えない。あるとき、富岡は大阪女子大の先輩でもある河野多恵子から、「もっと政治的にならなきゃ、うまくやりなさい」と言われたようだが、「私はそういうのはちょっと……」と下川に言ったものだ。
「富岡さんは並の才能ではなかった。もっともっと評価されるべきひとでした。評価されるべきときにされなかった。ご本人は、評価されなくてもいいけれどなぜされないのかという気持ちだったんじゃないでしょうか。忘れられないのは、『私は零落志向なんよ。どうしても下がっていくほうにいってしまう』と言われたことです。アップよりダウンを選んでしまう性向は、富岡さんの作家としての人生にも影響したのではないでしょうか。富岡さんに、老いていくことを見据えた小説を書いていただきたかった」
2023年4月8日。下川は富岡多惠子の訃報を聞き、死因に衝撃を受けた。老衰は、さまざまな話題を夢中で話し込んだ作家には最も似合わなかった。
※次回は4月15日に公開予定です。
(バナー画提供:神奈川近代文学館)