重鎮・吉行淳之介の反応
この座談会は、『男流文学論』を本編とするならば、付録としてもいいもので、文芸批評のフェミニズム批評となっている。俎上にのったのは、発売以来3カ月の間に掲載された膨大な数の書評。だが、その膨大な書評のなかに当時の三大紙のひとつである毎日新聞はなく、主要文芸誌も「群像」が小さなコラムで、「すばる」が書評ではないところで取り上げたのみ。つまり、文壇ジャーナリズムの主流派からは文芸批評とみなされていないという反応をうけた、というところから話はスタートし、なぜ文壇は黙殺するのかと展開。当時の文壇がムラ化していること、男性批評家の批評スタイルや、フェミニズムに対する態度を片っ端から論じていく。
富岡は、最後にこう話した。
〈この人らふたり(注・上野と小倉)だけじゃなくて、もっといろんな人が、半分揶揄され馬鹿にされたりしながら、勉強してきたわけですよね。田中美津さんからはじまって、二〇年間、それぞれ、なんやかや言いながらも、女の人たちはけっこう地道に勉強してきているわけですよ〉〈私たちは身につまされるから考えてきたんですね。身につまされない人は考えないですよ〉(同)
河野が雑誌局長から呼ばれたのは、「中央公論」7月号が出て、間もなくのことだった。局長が何かの折に吉行淳之介に会ったらしく、「苦情やクレームというんじゃないけれど、俺はちょっとここのところ神経の具合があまりよくないので、こういうのを読むと調子がよくないんだよ」と言われたのだという。
「『男流文学論』は、吉行淳之介を冒頭にもってきて論じていました。当時の文壇で吉行さんはカリスマで、ある種の聖域だったわけですから、そこから論じはじめたのは、何とも果敢で大胆でした。あの座談会でも、吉行さんが読売新聞のインタビューであの本について聞かれて『やれやれ、いやはやです』と言ったことや、田村隆一との対談で『フェミニズム系の問題は触らないほうがいいよ』と言ったことを、取り上げていましたよね。そのまま載せたわけですが」
鼎談で富岡が言う。
〈日本の風土としては、高見に立って、いやあ、あんなものは、まあまあいいじゃないか。嵐と同じでそのうちおさまる、というのが大人なんですね。そういう風土は非常に不愉快です〉(同)
雑誌局長は、困った顔をした。
「吉行さんの言うことには重みがあって、うちも谷崎賞や中央公論新人賞、いろいろご縁もあるわけだよ」
河野は中央公論新人賞の担当者として長らく吉行の世話になっていた。「じゃあ、僕はどうすればいいんですか。吉行さんのところに行って、この話をしましょうか」と応えると、それは止められた。
「話は承りました、と言って退室しましたが、掲載したことへの後悔はまったくありませんでした。ただ吉行さんとすれば、『中央公論』にあんな記事が掲載されるとは……と釈然としない思いだったんでしょうね」