『男流文学論』が出た半年後、富岡は中央公論社から『雪の仏の物語』を刊行していた。担当編集者の下川雅枝が「これで絶対谷崎賞を」と自信を持った作品だが候補にもならずに、受賞は瀬戸内寂聴の『花に問え』に決まった。選考委員だった吉行は8月に行われたこのときの選考会を欠席している。94年7月、吉行淳之介逝去。吉行が中央公論社で選考委員をしていたもうひとつの中央公論新人賞は、この年で終止符を打った。
そのあたりの事情はともかくとして、河野は作家を心配した。
「僕は、富岡さん、大変だろうなと思いましたね」
当時、吉行淳之介は大ヒットした87年の『夕暮まで』以来、ほとんど小説を書いてはいなかったが、文壇で隠然たる力を持ち、依然中心的存在であることには変わりなかった。その周りにいた編集者たちも、当然文芸ジャーナリズムの中核を担ってきたひとたちだった。
「何か具体的なことがあったり、噂を耳にしたわけではありませんが、文壇のまんなかにいたひとたちと富岡さんの距離ができていくだろうなとは感じましたね」
河野の言うとおり、「ええいっ」とばかりに文壇に打ち上げた花火が、富岡にどんな影響を及ぼしたかはわからない。『男流文学論』以降、富岡が刊行した小説は『雪の仏の物語』と、97年に講談社から出た『ひべるにあ島紀行』、2007年に新潮社から出た『湖の南』のみで、このあたりから評論の世界へ入っていくのである。それは、89年に伊東へ引っ越したことと無縁ではなかったろうし、年齢的なこともあったろう。むしろそれ以降、読売文学賞、野間文芸賞、毎日出版文化賞と次々大きな賞を受賞し、2004年には日本芸術院賞も受賞して、社会的な評価が定まっていったと考えられる。それでも、花火の火の粉が富岡の作家人生に飛び火しなかったとは思えない。あるいは、すべてを予想した上での革命的選択であったのか。
富岡が大きなリスクを冒して世に問うた『男流文学論』は、ヒットはしたものの、期待したほど爆発的な数字にはならなかった。藤本には、今ならその理由がわかる。
「なにが大ヒットにストップをかけたかというと、『私は、これ、読んでいない』ということだったと思います。もともとの作品を読んでないから読んでもしょうがないということだったんでしょう。でも、会話のテンポがいいし、梗概もついてるから、作品を読んでなくても楽しめるんですけどね。男性のなかにも評価してくださる方はいて、その筆頭が鶴見俊輔さん。『これは素晴らしい試みだ』ととてもほめてくださいました」