しょうがなく花火をあげた


「富岡さんというのは希有なひとでね。僕にとって、作家からあんなに優しく、親切にされ、温かい言葉をかけてもらったということはなかったんですね。ふとした拍子に仕事の不満めいたことを漏らしたら、『あんた、仕事はマジメにやらんとあかん。いい加減にやったり、手を抜いたりしてると、自分がバカに見えてくるから』と言われました。母親や上司に言われたら、うるせーなぁとなっただろうけれど、富岡さんにやわらかい大阪弁で、でもきっぱり言われると打たれたんですね。彼女のロジックをその後も繰り返し思い出しながら、すごく励まされました。恩返ししなきゃな、という気持ちがずっとありました」
 富岡が『男流文学論』の書評を論じたいと言ったときも、怯むことはなかった。
「いろいろ波風は立つだろうなという思いは若干ありましたが、それでも懸念はなかったし、二つ返事で引き受けました。やりたいと思いましたよね。というのも、あの本が出たとき、3人の座談会で論じられたように馬鹿げた書評が多かったし、文壇では無視するような雰囲気が強かった。ちゃんとこの本の位置づけを議論することは『中央公論』としてまっとうな態度だと思いましたから、やるべきだと即決したんです」
『男流文学論』は、発刊以来、膨大な数の媒体で取り上げられ、書評も次々載った。編集者だった藤本由香里は、その数の多さに小躍りしたほどだ。
「とにかくすごい反響でした。すごい数の書評が出て、めちゃくちゃ叩かれました。でも、私たちはしめしめと思っていた。叩かれても、話題になるほうが絶対いいんです。今の言葉でいえば、炎上上等! という感じでした」
 富岡多惠子、上野千鶴子、小倉千加子が書評を論じる座談会は藤本も参加して、92年4月30日に京都で行われ、「『男流文学論』の書評を総点検する」のタイトルで、6月10日発売の「中央公論」7月号に掲載された。16ページという長さである。文芸誌の対談や座談会では普通にある長さだが、総合誌でこれだけのページをとることは少ない。
 ここで富岡はなぜ男性作家の作品の読み直しをやろうと思ったかを、改めて語っている。
 二十歳のころから詩や小説を書いてきて、男性批評家から批評されてきたという経験があったとして、次のように述べた。

〈女だというまとまりでしか捉えられなくて個人個人として批評されてない感じが、ずっとしていた〉〈これまでの批評の言葉は男の言葉だということに気がついた。女の人だって、女の言葉では批評もし合っているんだけど、これまでそういうものが批評だと見なされなかった〉〈女自身のもっている言葉づかいというものもあるのに、そういうものを抑圧しないと、男と共通の言葉を使えない。それをなんとかして、少しでも変えたい〉〈べつに男に頭をなでられるようなものを書こうなんてだれも思ってませんけれども、批評が男のディスコースで重ねられていくうちに、読者も書き手もいつの間にかワナにはまっていくんですね。そこに風穴をあけなきゃおかしいという気持ちがだんだんたまってきた〉(「中央公論」1992年7月号)

 そうして、〈仕事というのは地面を這うように地道にやるものだと思っている〉作家は、今回は〈しょうがなく〉花火をあげたというのである。