空前絶後の存在、戦後最大の作家
河野にとって富岡との最後の仕事は、編集局長として『湖の南』を谷崎賞の候補作として検討したことだった。結局、受賞にはつながらず、2008年に中央公論新社を退社した河野と作家の縁も少しずつ遠くなっていった。
「僕にとって、富岡さんというのはパワーがあってアクティブなひとなんですね。好奇心旺盛でチャレンジングで。だから80年代には、たとえば『西部邁ってどういう人?』とか、『中沢新一って、どういう人?』とか、僕の知っている筆者について尋ねられたり、よく電話がかかってきたんですね。でも、ある時期から新しいひとに対してもだんだん自分が首実検に行ってやろうというような色気がなくなって、これまで馴染んできた世界を改めて手元に引き寄せるような感じになっていきました。ああ、このひともそういう心境になったのかな、と少し寂しく感じた記憶があります」
『男流文学論』の伴走者、上野千鶴子は、富岡が70代半ばで筆を擱いたことに驚嘆する。
「どこかで、彼女はなぜ書くのかと問われて、『書かずにすむようになるため』と言っていた。言ったとおりのことをなさって、見事だなと思いました。どんなに性描写が激しくなっても、女の書くものから性愛ロマンティシズムはなくならないのに、富岡さんだけは例外だった。愛と性が別ものだという、女にとっての性と愛の思考実験を極北まで見せてくれたあんな作家、他にいません。空前絶後の存在です」
上野の富岡多惠子論は、2013年の『〈おんな〉の思想 私たちは、あなたを忘れない』などで、詳細に分析されている。
もうひとりの伴走者、小倉千加子は、間遠になっていったものの、晩年まで富岡と手紙を交わし、電話で話していた。
「評伝を書くとき、『あんた、どう思う?』とよく電話がかかってきて、ふたりで議論していました。十数年ほど前、親が死んだので家業の幼稚園の経営を継ぐと報告したとき、もう書かなくなってはった富岡さんに、『あんたの文章はゼニのとれる文章や。あんたはもっと書かなあかん。どうするの。幼稚園にとられた』と心配され、怒られました。本当に優しくしてもらいました。詩を書いて、小説を書いて、評伝を書いて、そのすべてにおいて独創性があり、新しいものでした。戦後最大の作家です」
富岡多惠子が87歳で逝った翌年の2024年12月、日本の文壇を大きく揺るがした32年後に『男流文学論』の韓国版が刊行された。韓国の通販サイトのレビューには、「このような本を待っていた」「韓国の作家も同様に読まれるべき」といった声が並んでいる。
※次回は5月8日に公開予定です。
(バナー画提供:神奈川近代文学館)