倍賞美津子との離婚

兄貴が美津子さんとの離婚を公表したのは1987(昭和62)年10月のことだった。夫婦の関係はその2年ほど前から破綻していたという。兄貴自身が回想しているように、やはりハイセルや団体経営の問題で疲弊していたところに女性問題が発覚し、それが決定打になったようだ。そのあたりのことは、ブラジルを拠点としていた私にはよく分からない。

ただ1986(昭和61)年5月、兄貴が写真週刊誌に不倫をキャッチされたとき、坊主頭になって反省していたのはかなり驚いた。当時、一人娘の寛子さんも物事が分かる年齢になっていたから、父としてケジメをつけようと思ったのだろう。

アントニオ猪木 木戸修 山本小鉄 藤波辰巳
新日本プロレスを旗揚げし、木戸修、山本小鉄、藤波辰巳(現・辰爾)らとともに道場開き<1972年>(写真提供:講談社)

兄貴は写真週刊誌に撮られた六本木のホステス以外の女性とも交際していた。後援会関係者の娘さんで、ブラジル人のモデルである。

兄貴も結婚するたびに女性観を語っていたようだが、実際は自分から女性にアタックすることはほとんどなく、「来るものは拒まず」の姿勢が基本だ。不倫の言い訳にはならないが、ほとんどの場合は相手の術中にハマっており、このときもそのパターンだったと断言する。

当時はまだハイセルの借金をクリアできるめどがたっていたわけではない。強いストレスのなかで、つい他の女性になびいてしまったのだろうが、このモデルとの不倫も最終的には美津子さんにバレた。兄貴の隠蔽工作は恐ろしく稚拙だから、必ず発覚する。