13歳頃、自分でつくったワンピースを着て(写真提供:稲葉さん)

家庭の中で感性を育み、服づくりに目覚めて

私は東京・八重洲に生まれ、5歳の時には3月10日の東京大空襲を経験しました。B29の爆音や焼夷弾が落ちる時のサラサラとした音は、今も耳に残っています。私にとって、この一夜を生き延びたことからして奇跡なのです。

焼け出されて一家で鎌倉へ移った頃は、終戦を迎えたとはいえ、まだまだ日本中の人が貧しい暮らしを余儀なくされていました。それを思えば、私の家庭環境は恵まれていたと思います。

大正時代にアメリカからタイプライターを輸入して会社を興した祖父も、画家を夢見ながらやむなく家業を継いだ父も、外国人の職人が仕立てたスーツを着ていました。戦後しばらくは、アメリカに暮らす大叔父が心配して、食料や洋服、ファッション誌などを頻繁に送ってくれて……。

つまりわが家は《西洋かぶれ》だったわけですが、お菓子のポップなパッケージや可愛いフリルのワンピースといった夢のある美しいものが、私の感性を育んでくれたように思います。

祖母は手先が器用で、何でも自分で縫ってしまう人。最新のファッションにこだわる母も、アメリカから送られてくる型紙で見事に服を縫い上げるので、子ども心にすごいなと思っていて。私も影響を受け、小学生の頃からお人形や着せ替えの服をつくっていました。

家で着る服は、母がつくってくれたり、近所の仕立屋さんに頼んだり。でも、母の好みは真面目な感じで、高校生の頃にはもの足りなさを覚えるようになっていました。

かといって、私の着たい服はどこにも売っていない。それなら自分でつくるしかない! というのが、服づくりを始めたきっかけでした。