モデル・稲葉佳枝として『ミセス』で初仕事。1963年1月号(写真提供:文化出版局)

でも、当時日本に進出してきたジバンシィのアトリエで働きたいと門戸を叩いたものの、ご縁がなくて2度も断られてしまった。悔しい思いをしましたが、美しい服をつくる夢を絶対に諦めない、と奮起したことを覚えています。

ほどなくして、文化学院時代の同窓で洋裁学校にともに進んだ菊池武夫と結婚し、2人でオートクチュールのアトリエを始めました。

デザイナーは菊池、私は縫製を担当し、幸先よくスタートを切ることができたのです。ところが菊池は贅沢な素材にこだわる人で、採算が取れず、家計は火の車でした。

その頃、原先生の指名でモデルのピンチヒッターを務めたことがきっかけで、雑誌『ミセス』から熱意あるお声がけをいただき、専属モデルを務めることに。とはいえ、大事な縫製の時間を割くわけですから、私もメリットがほしい。

そこで、菊池武夫の服を着ること、撮影は月に1日のみ、という条件を出したのです。身のほど知らずもいいところでした。それなのに編集長は私を可愛がって、服飾の関係者もたくさん紹介してくださった。心から感謝しています。

後編につづく

【関連記事】
人気プロダクトデザイナー・秋田道夫さん流、センスが紡ぐ「コミュニケーション」。心地いい人づきあいを長く続けるために大切なことは…
コシノミチコ 日本人の私が英国で認められたのは「だんない」の精神があったから。「実力より少し高めの目標を作り、辿り着くように頑張る」
人気ジュエリーデザイナーが「特別」「武装のアイテム」と感じる宝石とは。「ジュエリーを身につける」という行為そのものが、キレイを加速させる