なにも理解できなかった
この時期、富岡と邂逅した編集者のひとりに、講談社にいた石坂秀之・元「群像」編集長がいる。作家より18歳年下で、富岡の作品を読み直したうえで、幾冊もの本と写真と1枚の皿を抱えてインタビュー場所に現れた。
出会いは70年代の終わり、入社まもない石坂が先輩編集者の小孫靖に「富岡多惠子とスキーに行くけれど、お前も来ないか」と誘われたのだ。小孫は出版部の富岡の担当で、『冥途の家族』『当世凡人伝』『芻狗』などの単行本の編集者である。
「あのときは新宿で待ち合わせてバスで行った気がします。バスのなかで他愛もないことを語り合ってご飯食べて、スキーして。俺はスキーがはじめてだったけれど、富岡さんは割と上手かったです。富岡さんとは苗場、万座、八方尾根、八幡平など行きました。いつも、可愛い格好してましたね。同行者は講談社の編集者たちで、それぞれのパートナーも同伴でした。ひとり参加は富岡さんと俺ぐらいでした。みんな富岡さんのことは好きでしたね。小説家といっても自由におしゃべりできる、普通のネエちゃんでしたから」
80年、入社3年目で出版部から「群像」へ異動になり、石坂は、その後編集長となる辻章に代わって富岡の担当となった。
「辻さんは誰から見てもとても優秀な編集者でした。文学的な知識も豊富で、その後小説家になって芥川賞候補にもなった人です。そんなすごい辻さんの代わりに自分が富岡さんの担当になったわけです。怖かったです。俺に務まるのだろうかと悩みました。他の作家には、漢字が読めなかったり、文学のこともあまり知らないで怒られたりしていましたが、富岡さんはこちらの無知をまったく気にせず、スキーに行ったときと同じような接し方をしてくれました。当時、『芻狗』とか、『遠い空』も読みましたが、はっきり言ってわかんなかったですよ。富岡さんの書く女性というものがなにも理解できませんでした。ただ、なんとなく、本質的なことをずっと追求して書いているんだろうなと感じていました」