作家の励まし


「表現の風景」の連載 がはじまったとき、富岡は49歳で、単行本が刊行されたときには50歳になっていた。作家の全方位に向かう好奇心は旺盛で、詩と歌詞の関係について吉本隆明を批判し、返す刀で自己批判して、いくつかの章では小説家の自意識にも触れる。

〈だれにも読まれたくない、という気持と、だれかれに読まれたいという気持の分裂で、少なくともわたしは自分の「小説」から遠ざかろうとする〉(「呪術と複製」『表現の風景』1985年)、〈「小説」或いはことばによる表現によって自分の「私的な日常」がわかられてたまるかという気持と、「私的な日常」を公開して、背中のホリモノをどうだと見せるひとのような気分を味わいたいという気持にひき裂(さ)かれることだった〉(「私生活と私」同前)

 30歳を過ぎたばかりの石坂に、富岡はこんな言葉を繰り返す。
「何回も同じことを言われました。いくら親しくても、家族や夫婦であっても、今日出かけて帰って来るとは限らない。事故に遭うかもしれないし。いつ何時、今生の別れが来るかもしれないと覚悟して生きている、私はいつもそういうふうに思っている、と」
 石坂は、淋しいことを言うなと思った。
「でも、言われてみれば正論ですよね」
 石坂が慶應大学に通う学生だったとき、学内の山を散歩していて便意を催したため、紙がなくて読んでいた岩波文庫を破って用を足したという話をしたときは、作家は「次は是非、私の本で用を足してほしい」と言うのだった。
「文芸書なんて所詮はコピー、文芸書が権威になっちゃダメなんだと言ってくれたんです」
「自分の頭ばかり撫ぜているやつは頭の真ん中がハゲるから、おいらクン、私が間違っていると思ったら遠慮なく言ってちょうだい。そうしないと私の頭がハゲるかもしれない」と、笑いながら言ったこともある。富岡は、自称から石坂を「おいらクン」と呼んでいた。
「富岡さんの言葉全部が、俺に対する励ましに聞こえました。俺は母子家庭で、つまり女性の力で育っているから、富岡さんがいう男性的な思い上がりや権力とははなから関係ない。富岡さんと話したことは多岐にわたり、俺は思ったことはなんでも言うわけです。それが当たり前だと思っていたけれど、どんなに大切な関係だったかとあとになって思い知りました」