作家が行き着いた先


「白光」発表の年の暮れ、「群像」で「逆髪」の連載がスタートした。元売れっ子漫才師だった姉妹を中心に家族の桎梏、ジェンダーの嘘が語りの調べにのって軋み、露呈していく。
「『白光』と『逆髪』は近いです。富岡さんは家族についてどんどん深度を深めていって、読んでるとき、富岡さん、どうなるんだろうと思いましたね。どこへ突き当たるのかって。たまに浜松にいる弟さんの話をされて、富岡さんも人間らしいこと言うなぁと思ったけど、『白光』にも『逆髪』にもそういう気配ゼロじゃないですか。普通はもっと情緒に頼るものなのに。今でも、あのころ、富岡さんが見てしまった光景を思うと胸が痛くなります」
 89年3月、「逆髪」が終盤にさしかかったころ、富岡は伊東へ居を移した。2002年に群像の編集長になる以前に石坂は担当から外れていたが、漫画編集部にいた3年間を挟んで、定期的に片道2時間以上かかる富岡のもとに通った。
「改築が終わった伊東の家に行ったとき、『ずい分立派なところに住むんですね』と嫌味言ったら、『いーじゃない! これくらい』って怒ってました。もう担当でもないのに、次の担当連れて行ったり、年中行ってた気がするな。伊東に移ってからしばらくして、鬱で会えないと言われました。菅さんに電話して『どんな様子ですか』と聞くと『まだ会えない』って言われたり。でも、こちらは鈍感だから、放っておけば治るもんだと思っていました。ただ、こんなところ、誰も来なくなっちゃうんじゃないかなとちょっと心配していました」 
 97年、富岡は『ひべるにあ島紀行』で野間文芸賞を受賞する。帝国ホテルでの授賞式で、石坂は「一番前で見ててよ」と声をかけられた。2014年、編集者が定年を迎えて講談社を退社することを電話で報告したとき、すでに筆を置いていた作家はこう言った。
「もう書かない。ひとにも会わない。でも、おいらクンなら会ってもいいよ」
 作家は最後のインタビューで語っている。

〈「もうヤンペ」、もういいんだ、と思った。年をとってもがんばっている人はいるし、やりたい人はやったらいい、私はいやだ、と〉(『私が書いてきたこと』2014年)