3歳くらいから大相撲をテレビ観戦
大相撲のテレビ放送が始まったのは昭和28年5月。同年4月に、この世に姿を現した私は、3歳くらいから大相撲をテレビ観戦していた記憶がある。
私の父は大正7年に東京都墨田区(旧本所区)、母は昭和2年に東京都江東区(旧深川区)で生まれ育った。母の実家の近くには、相撲部屋や結婚した力士の自宅が多かった。大相撲のラジオ放送はNHKで昭和3年1月から開始したので、それぞれ大相撲のラジオ放送を聴いていた。2人は戦後に初めて出会ったが、お互いの実家が空襲で全焼したので、結婚後は浅草の近くに住むことになった。
母の父親も大相撲ファンで、自宅と仕事場(印刷業)が同じで、仕事が休みの日は、友人の分まで自分でおむすびをにぎって、国技館にでかけて大相撲を観戦。母は、両親の出身地である新潟から親戚が来ると、大相撲観戦に連れて行くという重大な任務を果たしていた。
今年の春場所、大関・大の里と前頭4枚目・高安が優勝決定戦をする前に、支度部屋の様子がテレビに映り、壁に「ステテコシャツで仕度部屋から出ないこと」という張り紙があった。力士としてのキチンとした姿で外に出ろということだ。
母は子どもの頃、医院から幕内力士が着物を抱えて上半身裸で出てきて、道路で着物を着ているのをよく見かけた。浴衣をひっかけて、荒縄を帯にして闊歩する力士もいた。本場所が年2場所の時代に史上初の69連勝をした双葉山(第35代)だけは、いつもキチンと着物を着て、『横綱の品格』のオーラを放って歩いていたそうだ。
母は東京大空襲で火の粉の中を逃げている時に、国技館が燃えているのを見て、「日本はもうだめだ」と思い、力が抜けた。しかし、弟がラジオ(いまのような小型のではない)を抱えていたので、「コンセントさえあれば相撲放送が聴ける日が来る」と気を取り直し、再び火の粉の中を必死で逃げた。