オモロイかオモロナイか

 奈良に生まれ、大阪の河内・富田林で育った佐々木は、富岡の下の弟・昌弘と同じ47年の生まれで、最初から作家は「あんた、弟と同い年やねんなぁ」と親しみを見せた。対話は、大阪人の語りをめぐって広がっていった。
「大阪は語り言葉の国ですから、たえずボケとツッコミがあって、どこでツッコむか、ボケるか、これは小さなころから友だちと遊びながら覚えてしまう習慣なんです。阪神タイガースが連敗し続けても、『どうや、おまえら、こんなむちゃくちゃよう負けんやろ』って逆にもっていくとか。そういうことをしないと大阪では生きにくい。富岡さんのすごいところは、そうした大阪に愛着があるうえで、ただし、そういう語りの世界で自足させないで、いかに書き言葉でその先へ掘り進めていくかだ、と言うんです。
 近松は純粋の関西弁ではなく、人形浄瑠璃が生まれた徳島弁などを混ぜ合わせた、ある種エスペラント語化した抽象語を作ることによって江戸にも出て行けた。大阪弁をいかにエスペラント語のように方言から脱皮させるか。方言のひとつとして落としこまれ抑圧されてきた女の言葉も、そこを引っくり返すには新しい言語が必要だと富岡さんはもっていくわけで、そのへんはすごいなぁと思いましたよね」
 実のところ、佐々木は、対話している最中は富岡のすごさがわかっていなかった。
「そのときはオモロイこと言うなとは思っても、すごい奥深い話だというのはあとになってから気づくんですよ。大阪人にとって一番大事なのは、いいか悪いかではなくオモロイかオモロナイか。それを実践されているのだから、そらお話はオモロイんですよ。富岡さんは芸術家というものは嫌いで、文学の仕事も芸事としてとらえるという立ち位置。西鶴を論じたときもそうやったでしょ」

〈いかにも芸術家などというヤボな恰好は見せずにいて、「胸にイチモツ、背に荷物」を感じさせてくれる〉(大坂の西鶴 「日本経済新聞」2004年2月8日)

「胸にイチモツ、背に荷物、これは決め文句やね。富岡さんは芸術となると、『私ら町人風情にはそんなむずかしいことはわからへん』と、パーンと蹴っ飛ばす。『町人』とか『細民』とか言うて、どの時代を生きてるねん。そのとき、僕は富岡さんが鬱やとは知らなかったんです。途中からテンション上がって晴れやかになって、最後は笑いながら終わったんですけど、僕はそういうひとだと思ったんですよ」
 富岡は対話のなかで、最初の小説『丘に向ってひとは並ぶ』は、大阪を中心におじいさんの代から自分のルーツを書こうとしたと語り、BOROの歌「大阪で生まれた女」に話が及ぶと、自虐ネタで笑わせる。

〈東京へついて行ったら、唾ひっかけられる。「アホォ、あんなくだらん男のけつ追うて」とね。これ私やけど(笑)〉(『「かたり」の地形』1990年)

 80年代に入るころ、富岡の編集者や関係者の間では池田満寿夫の名前は禁句となっており、年譜からもその名前は削除されていく。なのに自らそこへ言及していき、富岡がいかに佐々木との会話を楽しんでいたかがわかろうというもの。そして佐々木に向けられた作家の信頼は、夫の菅にも伝播した。