ネパールの大使館で
93年3月、佐々木は、富岡、伊藤比呂美、高橋睦郎を伴いネパールへ2週間出かけた。佐々木がネパールの詩人とふたりで、日本の詩や小説をネパール語に翻訳して本をつくっており、その本の贈呈式で行われる詩の朗読会のためであった。日本大使館主催で、カトマンズとポカラの二つの都市を回った。
「そのときも躁鬱がきつくて、菅さんから、『お腹がすいたらものすごく鬱になるので、昼間お腹がすきだしたときに飴玉をやってほしい』と渡されて、僕、ずっと飴玉持って、昼食食べたあと夕食までの時間に食べさせてたんですよ。飴玉舐めたら、富岡さん、大人しくなるんです。マンガみたいやった。伊藤比呂美も高橋睦郎もよく怒られてたけど、僕はネパールでの人脈がありますし、絶えず飴玉をやっていたから、頼りにされてたの」
富岡の死後、バッグ好きの作家がたくさん持っていたバッグのほとんどのポケットから飴玉やチョコレート、黄色の耳栓が出てきた。耳栓はアクセサリーや腕時計がしまってある引き出しからも、いくつも出てきた。
ネパールの旅で、佐々木が忘れられない出来事がある。大使館のディナーに招かれたとき、部屋に並べられた調度品や工芸品のひとつひとつに、富岡が文句をつけはじめたのだ。
「日本のものとかズラーッと並んでるんですが、あのひと、絶対おべんちゃら言わないひとだから、大きな声でひとつずつボロクソに言うんです。『なんや、これ。なんでこんなゲテモノ置いてあるねん』って、もうむちゃくちゃ言うてくるの」
佐々木が「富岡さん、声が大きい、声が大きい」と止めても、富岡は憤懣やるかたないようで「こんなのに囲まれてものを食べるの、私、途中で嫌になるかもしれないから出て行くよ」と言うのだ。佐々木は「とにかく、ちょっと辛抱してほしい。もう我慢できないというとき、早めに知らせて。そしたらなんとか僕が始末するから」となだめた。
「で、実際そうなりましたよ。富岡さん、途中で本当に耐えられなくなって、何度も僕の膝を叩くんです。はよ、終わらそうと。終わらせましたよ」
佐々木には、岩手・八幡平の山荘に招待されたときのある場面も忘れがたい。菅が客に食べさせたいと海から獲ってきたホヤを料理する横で、富岡は「こんなまずいもん、よう食べるな! ここにはこんなものしかないのよ!」とボロクソだった。
「あのときはおかしくて、おかしくて。で、木志雄さんは反論しないのね。黙ってるの。慣れてるのね」
菅は結婚当初、富岡がしょっちゅう言う「あんたアホやなぁ」が、アイラブユーという意味とはわからずに、「俺はアホじゃない」と怒っていた。しかし、今、「俺はアホだから」としばしば口にする。
「ボロカス言われても愛情があるとわかるから。多惠子さんの大阪弁が聞きたいですよ」