大阪弁というグルーミング
『「かたり」の地形』が刊行された90年の秋以降、菅は妻が抑鬱状態になると、佐々木にSOSを出すようになる。「富岡に会ってやってくれ」「僕から頼まれたと言わず、まったく無関係な用事を作って富岡に電話してやってくれ」と伊東から電話が入るのだ。
「僕は何度も何度もあのひとの躁鬱には立ち合っていますれど、鬱のときでも、大阪弁をしゃべる相手とだったらものすごく晴れやかになってくるんですよ。で、菅さんから電話がかかってくると、事情はわかりますから5分以内にまったく無駄な用事をつくって電話するんです。そのときの富岡さんは、最初は『はい』とドーンと低い声で出て、僕の名前を言ってもまだ低いわけ。そのうち、大阪弁の僕がいろいろしゃべっていると、『うん、それで?』『ほんまかいな?』とか言わはる。このあたりからずーっと変わっていって、最後は笑い声で終わるんです。彼女が大阪弁で思考しているのがよくわかりますよ」
〈大阪人の、親しい者同士が軽口や悪口をいい合ったり、きついツッコミを入れ合ったりしているのを、わたしはいつも、あれはコトバによる「毛づくろい」--グルーミングだなあと思ってしまうのである〉〈われわれの日常のなかでの軽口、冗談等のグルーミングは、笑うためばかりでなく、都市の細民が生きていくのに不可欠な一種の「技術」だったような気がしてならない〉(「ミーツ・リージョナル」2002年1月号)
佐々木に「大阪弁注入」というグルーミングを頼むしかなかった、当時の菅の心境とは。
「それまでも『しんどいねん』としょっちゅう言ってましたが、伊東に引っ越してからは、それがひどくなりました。佐々木クンが電話してくれると、わりとよくなるんですよ。僕は寡黙だし、大阪弁じゃないからうまく会話できなくて。やっぱり、おしゃべりが生きがいのような彼女としてはフラストレーションがたまるよね。あんまりにぎやかなのもダメだけれど、もともとにぎやかなところで育っているし、金持ちだったから好きなものを食って好きなことをやって育ってきたんだからね。もっと大阪へ行けばよかったかな。でも、お母ちゃんは死んじゃったしね」
富岡の母、小うたは79年に3月に亡くなっている。
「お母ちゃんがいるときは、よく大阪に行ってたんです。もう箕面の家はなくて、お母ちゃんは多惠子さんの弟・勝嗣さん家族と一緒に吹田の相川の家で暮らしていたんですけれど、よくしゃべる、面白いひとだった。洒脱で、三味線弾きながらしゃべったりするわけよ。多惠子さんとふたりがしゃべるのを聞いていると、とにかく面白くてね。ああいうふうに漫才みたいになにか言うとパッパッと相手が返してくる環境で育った人間にとって、ここは田舎で、しんどい話ですよね。ずっと書いているんだし。土丸が大阪弁しゃべってくれればなぁと思ってましたよ」
その土丸、富岡と菅が生後2カ月から慈しんで育てたシバ犬も、92年の初頭には17年の生を全うした。
〈犬はわたしをずい分なぐさめてくれた。老年の彼と、冬の雑木林を歩いていると、時にいらだつ心もしずまり、かなしみは薄まっていくように思え、そういう時わたしは犬のそばにしゃがみこんで、犬の背中をなでた〉(『矩形感覚』1993年)
「土丸がいなくなったのも、こたえたでしょうね。可愛がってましたからね。また犬がほしいねと彼女が言ったこともあったけれど、自分たちの人生の時間を考えたらこれからは難しいかなと諦めたんです。あのとき飼えばよかったと、何度も後悔しました」